[I]
次の文章を読み,設問1~20に答えなさい。
中世帝国を考察する際に,カロリング「中部王国」の持つ重みを充分に考慮する必要がある。八四三年の(a)ヴェルダン条約でフランク帝国が分割され、皇帝ルートヴィヒ一世の長子ロタール一世は、イタリアの他、(b)ロートリンゲン(ロタリンギア・その息子のロタール二世の名にちなむ「ロタールの王国」(Lothari regnum)に由来)と(c)ブルグントとを含む「中部王国」を得た。この国は北海沿岸から南伊ガエタ湾に及ぶ地域で、東はライン川とアルプスによって、西はスヘルデ、ミューズ、ローヌの流れによって限られていた。この不自然に細長い地域こそ、(d)カロリング帝国の中心地域であり、奇妙な人為的な複合地域として歴史の経過の中で生まれたが、中世を通じて重要な意味を持ち続けた。
(e)東フランク王権を継承したオットー朝のドイツにとって、常にカロリング「中部王国」は再統合の可能性が存在し、実現の気配も見えた。この動きは西ではフランス、東ではドイツの安定性と領域的統合を脅かすもので、特にドイツでは、王権の対外政策のみならず、国内政策の成否の根本に関わる重大問題であった。
(中略)
ドイツ王の皇帝戴冠はイタリア情勢の急展開に即応したものと言える。ベレンガーリョの独立化の動きが再発し、教皇ヨハネス一二世の救援要請によりオットーは(中略)第二次イタリア遠征を行い、( A )年ローマで聖職者・市民の歓呼の中、教皇より皇帝冠を受ける。イタリアとブルグントの貴族の野望の対象、「中部王国」支配の根拠、更にはローマの党派争いの道具であった帝冠のドイツへの移転が成就した。それはまた八四三年のヴェルダン条約によるフランク帝国の分割以来の大きな国際的問題の解決でもあった。
オットーが倣ったのはカール大帝だったが、目標としたのはロタール一世(中部王国初代)の「帝冠と結合した「中部王国」」である。ロタールの帝冠に政治権力の十分な支えがなかったが、オットーの皇帝戴冠はドイツ側の政策利害と結びついたものだった。なぜならばそれは、「中部王国」をドイツ王国と不可分とする方向で動いてきたオットーの政策を反映し、ドイツの帝国的覇権のシンボルだったからである。
ドイツ、ブルグント、イタリアの三国の関係の歴史が、(g)ドイツの有すべき覇権の象徴である皇帝冠獲得のためオットーを南進させた。彼が追求したのは、それ自身が覇権的であるドイツの王権の帝国政策であった。しかしこの政策は否応なく(h)ローマ教皇との複雑な提携関係を生み、ドイツ王をカトリック世界の保護者の地位に昇らせることになった。
(中略)
ドイツ王国がカトリック世界の主導勢力となることを選ばざるを得なかったのは、(i)旧西ローマ帝国の歴史的なりゆきでもあった。覇権的なドイツ王権が皇帝権として教会の守護を引き継ぎ、カトリック世界は皇帝と教皇の提携をその基調とするに至ったが、この西方世界はアルプスの北を根拠地とする。ギリシア正教会が東方世界の統治者である(j)ビザンツ皇帝を教会の支配者とするのに対して、ローマ司教(後の教皇)を首長とする西方教会は、(k)霊的首長(=教皇)と世俗的首長(=皇帝)の相互協力にのっとり、ローマ帝国の伝統を継承した教会の保護者である皇帝職を戴冠を通じて教皇が授与する形式をつくり出した。教皇はキリストの代理として、この世の全権を掌握した( B )の正当な継承者であると主張し、自己の政治的保護者の選任を通じて、西方世界の政治的重心をローマへ引き戻そうとした。
(l)こうして生まれたカトリック世界は、教会的ローマ的理念においては中心をローマ及びイタリアに置いて展開するが、アルプスの北のフランク=ドイツ的政治・軍事権力が、常にローマ・イタリア支配を要求した。
池谷文夫『神聖ローマ帝国一ドイツ王が支配した帝国』(刀水書房、2019年)による
[Ⅱ]
次の文章を読み、設問1~9に答えなさい。
「君子儒となれ、小人儒となるな」((ア)『論語』)と述べ、空虚な形式主義を批判する(1)儒教思想においては、たんに儀式や作法の正しいやり方にとどまらず、それがなぜ必要なのかという人間社会そのものへの眼差しが深められていく。「礼」と いう観点から人間社会の秩序を考察する儒教思想は東アジア社会の政治道徳のあり方を強く規定した。なかでも、「朱子学の優等生」と評されることもある朝鮮社会は、いまなお儒教思想の影響を色濃く残している。では、もともと外来思想であった儒教思想は、どのように朝鮮社会に受容されたのであろうか。朝鮮半島の政治的動向を踏まえつつ、その一端を垣間見よう。 (2)新羅衰退後に生じた、後三国時代とも呼ばれる分裂状態を収拾したのは、( a )が建てた高麗である。高麗の建国は唐の滅亡とほぼ同時期であるが、自国の安定のため中国との関係を重視して後梁にはじめて入朝した。高麗は、933年にはトルコ系の( b )から冊封を受けた。建国当初は唐や新羅の政治体制を継承していたが、10世紀後半から11世紀にかけて文官登用手段としての科挙制度などを整備した。両班と呼ばれる官僚層中心の国家運営が行われ、11世紀半ばの文宗の治世を中心に全盛期を迎える。建国当初は数回にわたって北方の(イ)契丹から侵略を受けるなど、困難な対外関係を迫られたが、文宗の時代には首都である( c )の西の玄関口に当たる礼成港に宋や日本、(3)西アジアなどから来た商船が出入りし、貿易がいっそう盛んとなった。外国からやって来た商人は、八関会と呼ばれる国家祭祀などの各種国家的行事にも参加し、朝賀を行った。 高麗時代の仏教勢力は世俗世界においても強大であり、門閥官僚は仏教を安心立命の教えとして受け入れたが、同時に斉家治国の方法として儒教を重視した。 また、科挙に合格するために、中国古典に通じる必要があったことも儒教の普及を後押しした。しかし全体としては仏教の指導性が強く、儒教は思想的な主流とはなり得なかった。朝鮮半島に儒教が本格的に定着するのは、次の朝鮮時代であった。 その後、高麗では支配層の内部分裂に伴って相次いで反乱が起き、武官らによる武臣政権が樹立され、1世紀にわたって政権を担った。一方、外部勢力の侵略を受けて支配体制は動揺した。なかでもモンゴルは高麗に対して大規模な侵攻を繰り返し、抵抗を繰り広げた三別抄を鎮圧して高麗を支配下に置くと(この間に国号を元と改めた)、二度にわたる(5)日本遠征を実行した。元から高麗に導入された朱子学は14世紀になると徐々に盛んとなり、性理学の立場に立つ新興儒臣グループが形成された。 14世紀に( d )の乱をきっかけに元の支配力が衰えると、元との対応をめぐって支配層内では対立が続いた。そうしたなか、( d )軍などの外部勢力を撃退して功績をあげた人物が高麗を倒して王位に就き、国号を朝鮮と定めた。彼は、新興儒臣の鄭道伝らを中心に、朱子学を採用し、科挙の整備を図るなど、 明の制度を取り入れた改革を行った。15世紀前半、儒教による王道政治を標榜した( e )は、金属活字による出版や、朝鮮語を表記するための文字を制定するなど、各種の文化事業を活発に行った。 朝鮮は、国内の支配体制が安定すると、積極的な外交関係をとった。明との間に冊封関係を結ぶ一方、日本とは、室町幕府との間に対等な外交関係を開き、(6)通信使を派遣した。また、朝鮮の外交ルートは南方にも開かれており、1389年には、のちに琉球を統一する( f )の国王が使節を派遣して交流を求めた。朝鮮王朝が成立すると正式な外交関係が成立し、交易ルートが開かれた。この琉球ルートを通じて(7)東南アジアや中国南部との交流が盛んに行われた。 16世紀以降、両班と呼ばれる有力な家柄の出身者が官僚の大部分を占めるようになると、政治上の実権や学問上の指導権をめぐって党争と呼ばれる対立がくりかえされ、政治的混乱が続いた。その一方で、この党争を通じて朱子学にもとづく礼制が朝鮮社会に根付いていった側面も見逃せない。 しかし16世紀末から17世紀前半にかけて、朝鮮は外部勢力の相次ぐ侵攻を受ける。日本からの侵略により国土が荒廃して耕地面積が三分の一以下に減少し、土地台帳や戸籍も消失・散逸するなど、徴税に支障をきたすこととなり、疲弊した。また女真族のなかで頭角をあらわした( g )が後金を建てた。後金は明との連携を警戒して朝鮮に派兵した。その後後金から国号を改めた清は、朝鮮に服属国となることを求めて再度侵攻し、以後、朝鮮は清に臣従することとなった。清に服属せざるを得ない状況は、(オ)儒教的な文明観にもとづいて女真や清を「野蛮」とみなしていた朝鮮の知識人にとって深刻な心理的葛藤をもたらすこととなった。
[Ⅲ]
次の文章を読み、設問1~4に答えなさい。
ヨーロッパ諸国の非ヨーロッパ地域への進出が始まったのは15世紀末であり、その先陣をきったのはスペインとポルトガルであった。17世紀以降は、さらにオランダ、フランス、イギリスが続いた。イギリスは19世紀半ばごろまでに、アメリカ・アジア・太平洋の各地域にまたがる一大植民地帝国を築きあげたが、1895年に植民相になった( a )のもとで植民地との連携強化をはかり、その結果、オーストラリア連邦、ニュージーランド、 南アフリカ連邦がそれぞれ1901年、1907年、1910年にあいついで( b )になった。こうした諸国に加えて、 アフリカ分割を契機として1880年代より始まるいわゆる「帝国主義」の時代においては、ドイツ・ベルギー・アメリカ・日本なども植民地の獲得に乗りだした。 (ア)アジアではすでにスペイン・オランダ・フランス・イギリスなどが東南・南アジア地域に植民地を保有していたが、列強が19世紀末に帝国的関心の対象にしたのは中国を中心とした東アジア地域であった。この地域が帝国主義の舞台となるきっかけをつくったのは、アジアの新興国である日本であった。朝鮮半島の支配権をめぐって清と対立した日本は、日清戦争を起こして勝利し、1895年の下関条約によって割譲された( c )に総督府をおき、植民地経営をはじめた。清朝の敗北をきっかけとして、すでに多くの利権を中国に有していたイギリスのみならず、他の列強も、清朝領土内での鉄道敷設・鉱山採掘などの利権獲得競争に乗りだした。1898年にドイツが宣教師殺害事件を口実に山東半島の膠州湾を租借すると、ロシアは( d )および大連、フランスは広州湾、イギリスは威海衛と九龍半島(新海)をあいついで租借した。(イ)アメリカ=スペイン戦争でフィリピンを獲得したアメリカも中国への関心を強め、門戸開放通牒を発して他国を牽制した。このように列強による分割が進行するにつれ、中国では民衆の排外運動が激 化していった。(1)キリスト教の布教に反発する義和団による動きが広まると、1900清朝はそれを支持して列強に対して意戦を布告したが、各国は共同出張に踏みきって清朝をやぶった。その後、東アジア地域では、日本とロシアが大韓帝国の支配権をめぐって対立し、1904年、日露戦争が勃発した。これに勝利した日本は、3次にわたる日韓協約によって統監府の設置や外交権の剥奪などを遂行して大韓帝国を( e )とし、さらに1910年に併合した。 グローバルに展開されるこうした植民地獲得競争は、列強のあいだに深刻な対立を生みだし、1914年に始まる第一次世界大戦の要因のひとつともなった。一方で、帝国主義の時代は、列強による世界分割と植民地主義下の搾取・暴力・差別に異議をとなえる動きが各地で顕在化した時代でもあった。■こうした動きがすでに1880年代半ばから始まったのが、イギリス統治下のインドであった。大戦前、( f )で在留インド人の権利のために活動していたガンディーは、民族運動の指導者としてインド人のあいだで注目されるようになった。大戦中に彼はインドに帰国したが、戦後に制定された( g )に対抗するため、一般大衆を巻き込んだ運動を始めた。この法律は、令状なしでの逮捕、裁判抜きでの投獄を認めていた。 帝国主義に対抗するこうした動きは、他の地域でもみられた。戦後、反帝国主義は、1917年のロシア革命によって誕生したソヴィエト政府による「平和に関する布告」、および(ウ)アメリカ大統領ウィルソンが第一次世界大戦の講和のために打ち出した原則、の双方に含まれていた民族自決の理念の影響によって活発化した。 1919年、日本の統治下の朝鮮では三・一独立運動が、そして、(2)イギリス帝国内ではインドだけでなくアイルランドやエジプトでも抵抗運動がおこった。大戦の処理をめぐって開かれた( h )では、民族自決権の適用範囲が旧ロシア・オーストリアなどの諸民族独立に限定されることが決まった。植民地は解放されることはなく、敗戦国のドイツの海外領土やオスマン帝国の領土の一部も戦後に設立された国際連盟の( i )というかたちで、事実上、列強のあいだで再分配されることになった。(3)オスマン帝国内の領土に関しては、戦時中にすでに協定によってイギリスとフランスのあいだでの分配が決まっていた。(4)ドイツが死有していた海外領土も、戦後に日本などに分配されることになった。 ( h )において民族自決の理念が限定的にしか実現されなかったことは、植民地支配からの解放を求めるアジア・アフリカの人々を失望させた。こうしたなか、不満がつのる各帝国の植民地では、自治・独立を目指す運動がさらに活発 化した。(エ)インドでは、1927年、憲法改革調査委員会にインド人が含まれていなかったことから、民族運動はふたたび激化した。オランダ領東インドでは、現地人の相互扶助や啓蒙活動を目的とし、1910年代に急成長した( j )や、1920年 に結成されたインドネシア共産党の活動など、さまざまな模索がなされた。その なかから、地域・民族や階級・宗教の違いをこえた、一つの国民国家としての独立をめざす意識が生まれ、1927年にインドネシア国民党を結成した( k )らが、これを発展させた。
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