アテネ民主制の発展
当初は王政(Monarchy) = 有力者を王としてシノイキスモスが行われる
BC8C 貴族政(Aristocracy) = 富裕者が騎兵として国防にあたり、貴族となる
→ (1 = 執政官 )が貴族から選出され、行政、軍事、祭祀、立法などの権限を持つ
BC8C半 植民活動が活発になり、貨幣経済が発達 → 商工業の勃興
武器が安価になり、平民も武装 → 重装歩兵となり、(2 )をとる
→ 平民が国防の義務を果たす = 権利を求めるようになる
→ 貴族との対立が発生 = 身分闘争の開始
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< アテネの身分闘争 >
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BC6C (4 )の改革 ・・・ アルコンに就任、貴族と平民の調停者、ドラコンの法をほぼ廃止
・財産政治 ・・・ 血統にとらわれず、平民に財産額に応じて参政権を与える
・債務奴隷の禁止 ・・・ 債務を負った平民を奴隷にすることを禁止
※ 平民の没落を禁止 = 国防力を維持しようとした
結果 ・・・ 農民・貴族両者に不満が残る
僭主 ・・・ 非合法な手段で政権を握った人物(ローマの独裁官は合法的な存在)
※ ペイシストラトスは親衛隊を使ってアクロポリスを占領、権力を握る
→ 貧農の救済、公共事業、文化の奨励などによる中小農民の支持を背景に権力を握る
※ 大衆的な人気を得て、合法性を装いながら、独裁的な政治を行った
・ 血縁的な4部族制を地縁的共同体であるデーモス(区)を基礎とした10部族制に改める
・ 五百人評議会の設置 … 各部族(= デーモス)から50人ずつの評議委員を選出
※ デモスの支持による政治 = デモクラシーが行われるようになる
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ペルシア戦争(BC500~BC449)
アケメネス朝ペルシアによるオリエント統一 → ミレトスを中心とする(8 )が反乱
この反乱は鎮圧されたが、アテネが加担したとしてギリシア遠征を行う
3度遠征が行われる ・・・ ①BC492、②BC490、③BC480-479
※ ただし、戦争開始は反乱の起きた年 = BC500
※ イオニアは地図を確認すること、ミレトスとエフェソスが有名
※ ギリシア側は決して一枚岩だったわけではなく、中立を守ったポリスやペルシア側についたポリスもたくさんあった(テーベは一貫してペルシア側についている)
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第2回遠征
BC490年 (11 )・・・ ミルディアデス率いるアテネ陸軍が勝利
※ ペルシア軍の上陸を手引きしたのはアテネから亡命した僭主:ヒッピアス
※ ペリクレスはこのときまだ少年だったので参戦していない
第3回遠征
BC480年 (13 )・・・ スパルタ王レオニダスの軍が獅子奮迅するも全滅
「旅人よ、行きてラケダイモンの人に伝えよ。汝が命を守りて、われらここに死せんと」
ペルシア軍はアッティカ地方を侵略、アテネに迫る → デルフォイの信託「木の壁に依れ」
・・・ (15 )率いる海軍が勝利、無産市民が軍船(三段櫂船)のこぎ手として活躍
・・・ アテネスパルタ連合軍がペルシア軍を撃破、スパルタ将軍パウサニアスの活躍
※ 同じ頃、イオニアのミカレ岬でもギリシア軍が上陸して大勝、イオニア独立への道を作る
BC449年 カリアスの和約
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戦争の影響
・ オリエントの専制君主制に対する民主制の優越を示す
・ アテネでは無産市民の発言力が強まり、民主政が完成する、指導者はペリクレス
・ (17 )の成立 ・・・ アテネ中心、資金管理はアテネが行い、公金が流用されるなどした
→ 「アテネ帝国」というべき状況になる、ペルシア帝国は亡命者の受け入れ等によりギリシア世界をかく乱
※ 同盟の金庫はデロス島におかれたが、のちアテネに移された
→ 公金を流用してパルテノン神殿建設
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