22年 学習院 経済学部 世界史

問題演習

次のA・B・Cの文章を読み,それぞれ(1)〜(10)の設問について [ ]内の語句から最も適切と思われるものを選び、その記号を解答欄にマークしなさい。

A

全オリエントを統一したアケメネス朝ペルシアに対し, (1) [ 1 ミレトス  2 スパルタ  3 テーベ  4 デルフォイ]を中心としたイオニア地方のギリシア系ポリスが反乱を起こしたことに端を発し、アケメネス朝ペルシアとギリシアの諸ポリスの間で戦争が起こった。ペルシア戦争である。ペルシア軍は計3回に渡ってギリシアに侵攻したと伝えられる。1回目と2回目は、アケメネス朝第3代の王 (2) [ 1 キュロス2世  2 ダレイオス1世  3 シャープール1世  4 ホスロー1世]が派遣した遠征である。1回目の遠征は前492年のことであったが小規模なもので、艦隊が嵐に遭うなどしてすぐに撤退してしまう。そのすぐ後、前490年の2回目の遠征は三段櫂船が600隻とも伝えられる大規模なもので、ペルシア軍は島々を攻略しつつアテネに迫り、アテネの北東のマラトンに上陸するが、そこでアテネの将軍ミルティアデス率いる重装歩兵軍に撃破されてしまう。このマラトンの戦いで特に活躍した将軍にアリステイデスという男がいた。その彼のあだ名は「正義の人」。このペルシア戦争を主題とした『歴史』を記した (3) [ 1 ヘシオドス  2 タキトゥス  3 トゥキディデス  4 ヘロドトス]には「アテネの中で最も優秀で最も正義に適った男である」と評され,『国家』を記して理想国家論を説いた哲学者 (4) [ 1 セネカ  2 プロタゴラス  3 プラトン  4 アリストテレス]にも敬意を表されている人物である。
そんな彼は、その後,陶片追放の制度によって追放されてしまう。陶片追放とは、アテネの貴族勢力の基盤である旧来の部族制を解体し、村落を中心とした行政単位である(5) [ 1 デーモス  2 シノイキスモス  3 コロナトゥス  4 クレーロス]を制定することによりアテネ民主政の基礎を築いた(6) [ 1 リュクルゴス  2 クレイステネス  3 ペイシストラトス  4 ピタゴラス]が僭主の出現を防止するために作った制度である。以下は、正にその時の、僭主になりそうな人物を市民たちが投票するために陶片にその人物の名を書いていた時の逸話である。
ある文字の書けない市民がそうとは知らずにアリステイデスのところにやって来て、アリステイデスの名を持っている陶片に書き入れるようにアリステイデスに頼んだ。アリステイデスが「アリステイデスという男があなたに何か悪さをしたのですか」と尋ねると、その市民は「何もしていないし、自分はアリスティデスのことを良く知らない。だが、どこででも「正義の人」と呼ばれているのが気に食わないのだ」と答えた。アリステイデスは自分の名を陶片に書き入れてその 市民に渡してあげたという。
アリステイデスは、この頃ラウレイオン鉱山で発見された銀を使ってアテネの海軍の大規模な増強を図っていた政治家 (7) [ 1 エパメイノンダス  2 ヒッピアス  3 フェイディアス  4 テミストクレス] と、ライバルのような関係にあり、性格も実に対照的であったと言われる。前者は謀を好まず清廉を旨とし、後者は賄賂もいとわぬ策略家であった。(7) の海軍増強の策は3回目のペルシア軍の遠征を撃退する際に功を奏することになる。3回目はクセルクセス1世による親征であった。前481年夏にスサを出発したペルシア軍は破竹の勢いで侵攻し、翌年8月には山と海に挟まれた狭隘の地、(8) [ 1 テルモピレー  2 カデシュ  3 ティリンス  4 イッソス]において
レオニダス王率いるスパルタ軍を破り、アテネに迫った。しかし、翌月、(7) の計略により、サラミスの海戦で撃破されてしまう。これによりクセルクセス1世は意気消沈し、将軍マルドニオスに後事を託し帰国する。マルドニオスはギリシア北部の (9) [ 1 シリア  2 マケドニア  3 リビア  4 バクトリア]まで退き態勢を整え、前479年に再度、アテネに侵攻し市街を破壊するに至るが、(10)[1 プラタイア  2 アルベラ  3 カイロネイア  4 サルデス]の戦いでギリシア連合軍に大敗し戦死してしまう。
その後もギリシアとペルシアの小競り合いは長く続くが、紀元前449年にカリアスの和約が成立してペルシア戦争は終結したということになっている。その頃にはもう、(7)もアリステイデスも亡くなって久しい。

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B

蒋介石(1887-1975)は、中国近現代史上の最も有名な政治家の一人ということができるであろう。蒋介石は青年期、恩師の影響で軍事を学ぶことの重要性を確信し、日本に留学、その後新潟県高田の陸軍連隊に勤務した。この間、蒋介石は、中国同盟会に参加し、辛亥革命がおこると中国において革命運動に従事し、孫文の信頼を得た。
1924年、蒋介石は黄埔軍官学校校長に就任、1926年の (1) [ 1 長征  2 義兵闘争  3 北伐  4 仇教運動]に際しては、国民革命軍総司令に就任した。そして1927年の (2) [ 1 上海クーデタ  2 五・三〇運動  3 戊戌の政変  4 甲申政変]で中国共産党を弾圧し、(3) [ 1 広州  2 南京  3 重慶  4 武漢]国民政府を建てた。翌年、北京を占領、(3)国民政府主席となって、中国国民党の実権を掌握した。蒋介石は、財政的には、上海で中国経済を支配していた(4) [ 1 山西 2 徽州  3 浙江  4 延安]財閥によって支えられていた。(3)国民政府はその後、関税自主権回復に後押しされ、国内の政治的統一をめざし、満州事変など日本の動向への対応よりも、国内の中国共産党の弾圧を重視した。こうした政策は「安内攘外」(まず国内を安定させ、そののちに外敵を駆逐する)政策と呼ばれる。また1934年に蒋介石は、国民の規律化・組織化を進めるため儒教思想などに基づく新生活運動と呼ばれる運動も展開している。(3)国民政府は1935年にはイギリス・アメリカの援助のもと通貨も統一し、国家統一に一層邁進していった。
だが、満州事変後、中国では抗日の機運が高まり、中国共産党が内戦停止・民族統一戦線結成を呼びかけると、それに呼応した(5) [ 1 張作霖  2 宋教仁  3 張学良  4 劉少奇]が、落介石を拘束して抗日と内戦停止を要求するという(6) [ 1 柳条湖事件  2 上海事変  3 盧溝橋事件  4 西安事件]がおこった。これを契機として中国国民党は中国共産党と協力関係を結んだ。1937年に日中戦争が始まると、蒋介石は各地に拠点を移しつつ抗日姿勢を維持した。また太平洋戦争が勃発すると、対日の目標という点でアメリカ・イギリスとの関係を深め、中国の国際的地位の向上を図った。実際蒋介石は、1943年の (7) [ 1 テヘラン  2 カイロ  3 ヤルタ  4 ポツダム]会談にフランクリン=ローズヴェルト、 (8) [ 1 スターリン  2 チャーチル  3 グラッドストン  4 ネヴィル=チェンバレン]とともに参加した。
抗日戦争の終結後、国共内戦が激しくなる中、將介石は1949年に台湾に逃れ、中華民国政府を維持した。台湾では独裁体制を構築し、1950年に勃発した(9) [ 1 ベトナム戦争  2 インドシナ戦争  3 朝鮮戦争  4 中越戦争]の際には、アメリカと関係を深めた。ところが、1970年代になると、中華民国政府は国際連合の代表権を失い、また (10) [ 1 ケネディ  2 ニクソン  3 トルーマン  4 ジョンソン]訪中による米中の接近、そして日中関係の回復により、国際的に苦境に立たされることとなった。1975年、蒋介石はその生涯を閉じている。
以上のように、蒋介石は、中国近現代政治史の重要な出来事と深く関わっているため、その人物評価も時々の政治状況に左右されることが多かった。だが近年、「蒋介石日記」など新史料が研究者によって活用されるようになり、当時の歴史的文脈に即した総体的な蒋介石像が浮かび上がりつつある。

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C

アフリカでは歴史的に現在の国境を大きく越える広範囲の交易が行われ、民族と文化が交流し、独自の言語や文化が形成されてきた。現在のエジプト南部から北部スーダンにかけての地域に広がるヌビア地方には、紀元前920年頃から紀元後350年頃まで (1)[ 1 カネム=ボルスター  2 クシュ  3 マラッカ  4 モノモタパ]王国が存在した。この王国の後期には (2) [ 1 ソファラ  2 マラケシュ  3 マリンディ  4 メロエ]を首都とした (2) 王朝が栄えたが、その頃ナイル川沿いの交易ルートが発達し、エジプト文化だけでなくギリシア・ローマ文化の影響を受けるようになっていた。この地域では4世紀半ばに(2) 王朝が崩壊した後も、ヌビア語を話す支配者たちによって複数の王国が建国された。5世紀には、エジプトの交易商によってキリスト教が持ち込まれ、ヌビア北部地域が16世紀に(3) [ 1 アッシリア  2 オスマン  3 ムガル  4 モンゴル]帝国に支配される少し前まで、ヌビアの諸王国ではキリスト教文化が栄えた。(4) [ 1 エチオピア  2 タンザニア  3 ソマリア  4 ルワンダ]高原北部で紀元前後頃に建国されたアクスム王国は、インド洋交易などにより3~6世紀に繁栄した。4世紀にはキリスト教が国教となり、民衆の間にも広まった。アクスム王国ではゲエズ語という文字言語が使われたが、ゲエズ文字は古代イエメン地方の南アラビア文字から派生したものである。ゲエズ語は現在も典礼言語として使用されている。
西アフリカの大河 (5) [ 1 オレンジ  2 コンゴ  3 ザンベジ  4 ニジェール]川流域でも,交易を基盤とした複数の王国が繁栄し、交易を通してイスラームの影響を受けてきた。7世紀頃から13世紀半ば頃まで西アフリカのサハラ砂漠南縁にあったガーナ王国は (6)[ 1 塩金交易  2 絹馬交易  3 香辛料貿易  4 奴隷貿易]を背景に成立した。マリ王国は1240年から1473年まで現在のセネガルからマリにかけて存在した王国で、(5) 川中流の都市(7) [ 1 キルワ  2 ザンジバル  3 トンブクトゥ  4 モンバサ]はサハラ縦断交易とメッカ巡礼の拠点として繁栄した。(8) [ 1 アシャンティ  2アルワ  3 ソンガイ  4 マタラム]王国は15世紀から16世紀の間西アフリカの隊商都市の大部分を支配し、北アフリカとの交易で栄えた。マリ王国では交易に従事する商人集団のネットワークが形成された。彼らの話すマンデ語系の諸言語は、現在も西アフリカに広く分布する言語系統のひとつである。またマリ王国の都市でもあった (7) は、(8) 王国の時代には内陸アフリカにおけるイスラームの学問の中心地としても発展した。さらに(5) 川下流域、現在のナイジェリア北部にあたるハウサランド地域で相次いで起こった王国でも活発な商業活動が行われた。ハウサ語は商業言語として広まり、現在も多くの人々に話されている。
モガディシュ以北のアフリカ東岸の海港では、古くから季節風を利用したアラビア・イランとの帆船交易がおこなわれていた。アフリカ東岸の海港都市にムスリム商人が住みつき、15世紀末までに同地域で広くイスラームが受容されるようになる。そして、アラブ系の言語文化に属する人々と(9) [ 1 ゲルマン系  2 ズールー系  3 ナイル系  4 バントゥー系]の人々との交流の中で (10) [ 1 コイサン  2 スワジ  3 スワヒリ  4 フラニ]語が生まれた。(10)語は20世紀には東アフリカの広域共通語となり、その言語を基盤とした文化圏が形成されるようになった。

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次のA・B・Cの文章を読み,それぞれ(1)~(10)の設問について [ ]内の語句から最も適切と思われるものを選び,その記号を解答欄にマークしなさい。

A

共和政ローマの最後の100年間は、我が国では「内乱の1世紀」と呼ばれているが、世界的には「革命の時代」と呼ばれ、ローマの歴史上で最大の体制変化の一つが起こった時代であった。この時代には、多くのローマの政治家たちがファクティオと呼ばれる政治党派を結成して、属州総督や最高公職の (1) [ 1 アルコン  2 護民官  3 コンスル  4 デマゴーゴス]などの地位をめぐって、政治闘争を繰り返していたと考えられている。共和政ローマの公職者や属州総督は軍司令官でもあったため、政治闘争が軍事的対立(内乱)となることもあった。
この時代の政治家には、元老院多数派の支持を背景とする(2) [ 1 エクイテス  2 オプティマテス  3 ノビレス  4 ポプラレス]と呼ばれる保守的な政治家たちと民会に集まる一般市民の支持を背景に行動する政治家たちが存在し、この両派の政治家たちはしばしば対立していた。(2) の代表が (3) [ 1 キケロ  2 スラ  3 ユリアヌス  4 ネロ]であり、前80年代末に対外戦争のために指揮していた軍隊を率いてイタリアに進軍して、政敵の (4) [ 1 アリウス  2 ホルテンシウス  3 ネルウァ  4 マリウス]派との内乱に勝利した。(3) は、勝利後には反対派を粛清し、元老院中心の政治体制を再強化した。
(3)の死後も、ローマの政治はしばらく彼の残した体制の下で運営されていたが、次第に内部対立が生じた。(3)の旧部下の中で、(5) [ 1 スパルタクスの蜂起  2 シチリアの奴隷反乱  3 同盟市戦争  4 ミトリダテス戦争]を鎮圧したクラッススや地中海の海賊を討伐、ローマの東方支配を確立したポンペイウスが台頭し、彼らの功績の大きさを警戒した元老院の多数派と対立するようになったのである。クラッススとポンペイウスは、元々は功績を競い合う関係で不仲であったが、旧(4)派のカエサルの仲介で和解し、前60年に密かに私的な政治的盟約として、第1回三頭政治をはじめた。カエサルは、前59年の (1) に就任してポンペイウスたちに有利な法案を成立さ
せ、任期終了後の任務として属州 (6) [ 1 ガリア  2 ブリタニア  3 ヒスパニア  4 ダキア]の総督の地位を与えられた。カエサルは、異例の長期間にわたった属州 (6) 総督の任期中に輝かしい軍事的功績を挙げ、莫大な戦利品から富裕となり、さらに多くの忠実な支持者(部下)を得て、大きな政治勢力を獲得することになった。ところが、前53年には属州シリアの総督に就任したクラッススが遠征中にメソポタミアで敗死し、一人だけローマに残っていたポンペイウスが元老院 多数派と和解したため、カエサルの政治的立場は悪化した。
カエサルは、属州(6) 総督の任期切れに伴って元老院から帰国を促され、在任中の不法行為を訴追することを示唆されていた。政治的に追い詰められたカエサルは、前49年に軍隊を率いてルビコン川を越えて内乱を開始した。準備不足の元老院・ポンペイウス派は、ローマ市を明け渡してイタリアから脱出したが、前48年のギリシア北部のファルサロスの戦いでカエサル軍が勝利した。戦場からのがれたポンペイウスは、エジプトにて (7)[ 1 アルサケス  2 アンティゴノス  3 セレウコス  4 プトレマイオス] 朝の王の命令で殺害された。カエサルは、前44年に終身 (8) [ 1 インペラトル  2 ドミヌス  3 ディクタトル  4 プリンケプス]に就任するなど、共和政ローマの伝統と相容れない施策を行なった。そのため、前44年3月15日に反対派の元老院議員であるブルートゥスたちによって暗殺された。
カエサル暗殺後の前43年には、カエサルの姪の息子でカエサル家の相続人となっていたオクタウィアヌス、カエサルの旧部下のアントニウスとレピドゥスが、平民会の決議によって「国家再建三人委員」に任命されて第2回三頭政治を始めた。その後、前36年にレピドゥスが旧ポンペイウス派との戦争に伴って失脚、アントニウスが東方属州、オクタウィアヌスが西方属州を担当することなった。
東方属州を担当するアントニウスは、前36年に東方の大国 (9) [ 1 アケメネス朝ペルシア  2 ササン朝ペルシア  3 パルティア  4 メディア]への遠征に失敗し、ナイル川流域を支配する富裕なエジプトの女王クレオパトラとの関係を深め、ローマ市民の批判を浴びるようになった。前32年に内戦が始まり、前31年にギリシア本土北西部の (10) [ 1 アクティウム  2 イプソス 3 カンネー  4 ザマ]の戦いでオクタウィアヌスの軍が大勝し、翌前30年に、エジプトの都アレクサンドリアが陥落し、アントニウスとクレオパトラとが自殺した。これ以後、ローマはオクタウィアヌスの単独支配の下、帝政へと移行することになった。

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オスマン帝国の起源は,1300年頃アナトリア西北部に出現したトルコ系の一団に遡る。近隣の諸勢力との抗争の中で頭角を現した彼らは,やがてビザンツ帝国と同盟関係になり、皇帝の娘とも婚姻を結んだ。14世紀半ば、皇帝ヨハネス6世を救援するため、バルカン半島に出兵する。これがヨーロッパ進出の端緒となった。
1360年頃に即位したムラト1世はバルカン半島に積極的な進出を図り、(1) [ 1 ブダ  2 イズミル  3 アドリアノープル  4 コンスタンティノープル]を奪って都とした。彼はブルガリアやバルカン諸国を次々に撃破し服属させたが、セルビアの刺客によって暗殺される。だが、跡を継いだ (2) [ 1 バヤジット1世  2 バヤジット2世  3 セリム1世  4 セリム2世]は攻勢を緩めず、さらに勢力を拡大した。この脅威にじかに接するハンガリーの危機感は強かった。教皇による十字軍の呼びかけもあって、ハンガリー王ジギスムントを頭とし、バルカン諸国にフランスやドイツの諸侯の軍も加えた連合軍が結成される。これに対してオスマン軍は(3) [ 1 アンゴラの戦い  2 コソヴォの戦い  3 ニコポリスの戦い  4 モハーチの戦い]で圧倒的な勝利を収めた。騎士による突撃に固執し、諸侯が並び立って内部の統制を欠く連合軍は、精強なオスマン軍にまったく歯が立たなかったのである。ただ、この直後、(2) は東方でティムールと戦って大敗し、捕虜となって間もなく没する。以降しばらくの間、ヨーロッパへの攻勢は小休止となった。他方、からくも命拾いしたジギスムントは、(4) [ 1 ラテラノ  2 コンスタンツ  3 トリエント  4 ヴィエンヌ]公会議を主宰し、カトリック教会の分裂状態の解消を試みるとともに、ボヘミアに多くの支持者を持つフスを異端として火炙りにした。ただ、これはかえって中欧に戦乱をもたらすことになった。
この間、オスマン帝国は態勢を立て直し、再びヨーロッパへの攻勢を強めた。ついに1453年、メフメト2世はビザンツ帝国を滅ぼし、新たな帝都をイスタンブルと定めた。さらには黒海方面にも進出し、(5) [ 1 チャガタイ=ハン国  2 カザン=ハン国  3 キプチャク=ハン国  4 クリム = ハン国]を宗主権の下に置いた。こうした侵攻を担ったのはイェニチェリという精鋭軍であり、この頃には (6) [ 1 イクター  2 デヴシルメ  3 ティマール  4 プロノイア] 制によって徴募されたキリスト教徒の子弟が中核となっていた。
スレイマン1世の時代はオスマン帝国の最盛期である。彼は、ロードス島で長らく抵抗していた (7) [ 1ガーター騎士団  2 テンプル騎士団  3 ドイツ騎士団  4 ヨハネ騎士団]を追放して東地中海の制海権を握り、さらには海賊のバルバロス兄弟を帰順させて西地中海にも勢力を及ぼした。バルカン方面でも、ベオグラードを落とし、ハンガリー王ラヨシュ2世を敗死させるなど勢力を広げ、1529年にはウィーンを包囲するに至った。
この包囲は短期間で解かれたが,ここに端的に表れたオスマン帝国とハプスブ ルク家との対立は,この時代のヨーロッパ政治の重要な軸の一つとなった。例えばドイツのルター派の諸侯や諸都市は、(8) [ 1 ミュンヘン一揆  2 シュマルカルデン同盟  3 ヴォルムス協約  4 フランクフルト国民議会]を結成するなどして神聖ローマ皇帝に抵抗していたが、トルコの脅威を奇貨として、信仰上の譲歩を皇帝に迫った。また、ハプスブルク家を共通の敵とする (9) [ 1 フランス  2 イングランド  3 ポーランド  4 ポルトガル]はオスマン帝国と友好を深め、ヨーロッパ諸国で初めてカピチュレーションという通商特権を与えられた。さらには、16世紀後半、ネーデルラントでスペインへの反乱を指揮した (10) 【 1 ドレーク  2 ヴァレンシュタイン  3 オラニエ公ウィレム  4 ザクセン選帝侯フリードリヒ]は、スペインの力を削ぐべく、イスタンブルに使者を送って地中海でのオスマン海軍の活動を求めている。

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白熱電灯や (1) [ 1 蓄音機  2 ダイナマイト  3 ラジウム  4 飛び校]を発明したアメリカ人は、(2) [ 1 ノーベル  2 フォード  3 エディソン  4 レントゲン]であったと言われている。「発明王」とも呼ばれる(2) は,映画を発明した人物とされることもある。というのも、(2) がディクソンとともに映画装置の開発を進め、覗き箱型のキネトスコープを生み出したからであった。ただフランスのリュミエール兄弟がスクリーンに映写する形で映画上映を行ったのが、映画の
歴史のはじまりとされることも少なくない。第一次大戦前までアメリカでは、フランスやイタリアから輸入された映画が多く上映されていた。第一次大戦でフランスやイタリアでフィルム原料が火薬の製造に回されることになり、それらの国々で映画製作が中断され、アメリカ映画がアメリカだけでなく世界で広く上映されるようになっていった。
ロシア語で「破壊」を意味する(3) [ 1 インティファーダ  2 ポグロム  3 レコンキスタ  4 マッカーシズム]と呼ばれるユダヤ人に対する略奪や虐殺がロシアで起こっていて、それを逃れ、特に19世紀末以降、ユダヤ人がアメリカに渡ってくるようになった。またアメリカには、そうした人々以外にも世界各地から移住してきたユダヤ人が生活していた。そのような中で20世紀前半のアメリカでは、映画産業で事業を興して活躍するユダヤ人が見られた。
アメリカの産業界では競争排除を目的として、(4) [ 1 コンツェルン  2 ミール  3 カルテル  4 トラスト]が結成されることがあった。アメリカで (4)形態をとったことのある企業としては、ロックフェラーが経営していたスタンダード=オイルがよく知られている。また1908年に設立されたモーション=ピクチャー=パテンツ=カンパニー(MPPC)が、「ザ・(4)」と呼ばれていた。映画に関係する多くの特許を管理していた。このモーション=ピクチャー=パテンツ=カンパニーの監視の目から逃れるために、多くの映画会社がカリフォルニアへ移動することになった。カリフォルニアは映画撮影に適した環境であったこともあり、その後、特にハリウッドが映画産業の中心地へと発展していくことになった。
ところで第一次大戦期のアメリカでは「戦争をなくすための戦争」というスローガンの下で、クリールという人物を委員長とする委員会が全米で反ドイツ講演会を開催していた。また、この委員会は反ドイツ映画の製作を指揮したり、支援したりもしていた。例えば (5) [ 1 ディズニー  2 チャップリン  3 シェーンベルク  4 バーナード=ショー]が製作した映画《担え銃》の撮影にも協力していたとされている。この(5)は1936年にアメリカで公開された映画《モダンタイ ムス》を製作したことでも有名である。1940年に(5) は、反ナチス映画であった《独裁者》を公開している。この映画で (5) は、当時のドイツでフューラーと称して独裁政治をしいていた (6) [ 1 ムッソリーニ  2 ペタン  3 ヒトラー  4 フランコ]をイメージさせる独裁者と、ユダヤ人の床屋を演じていた。当初、(5)は無声映画に固執していたというが、ラジオが登場し、広く普及するようになっていく中で、映画界ではトーキーが製作されるようになっていった。(2)が(1)を発明して以降、技術開発が進み、トーキーに必要な技術は第一次大戦直後の段階でほぼ完成していた。
第一次大戦後のアメリカで大衆文化の発展があった背景には、ラジオの普及があったことを忘れてはいけない。アメリカでは1919年に (7) [ 1 フーヴァー  2 ウィルソン  3 ヤング  4 ドーズ]の働きもあり、アメリカ・ラジオ会社 (RCA)が成立することになった。ちなみに、1929年に組織された、(7)を長とする専門委員会で、ヴェルサイユ条約でドイツが支払うことになった賠償金の削減案である (7) 案が作成されたことでも、(7)の名前はよく知られている。開発されて間もないラジオの利用はドイツでも見られた。例えば、第一次大戦では開戦直後にイギリスによってドイツとアメリカを結んでいた海底ケーブルが切断されたときには、ラジオが利用されたと言われている。19世紀半ばに海底電信ケーブルが、フランスとイギリスの両本国に挟まれた(8) [ 1 ドーヴァー  2 ホルムズ  3 マゼラン  4 マルタ]海峡にしかれてから、そうした電信ケーブルの敷設が進み、世界各地が電信網で結ばれるようになっていた。
ドイツでは、映画産業も発展した。第一次大戦中のドイツでは軍が映画による軍事ニュースに意義を見出した。そのような中で、例えばドイツの重工業を代表する企業の1つで、軍需企業でもあった (9) [ 1 クルップ  2 ジーメンス  3 ダイムラー  4 マルコーニ]社の重役フーゲンベルクらによって映画会社が組織されるといったようなこともあった。ちなみに (9)社は、(9)家で「大砲王」と呼ばれた人物の下で軍需企業として大きく成長したことが知られている。
テレビに関して、最初の定期的な放送は、ドイツのベルリンで開始されたとされている。そのようなベルリンで1936年に開催された(10) [ 1 万国博覧会  2 サッカーワールドカップ  3 サミット  4 オリンピック]はテレビ中継された。 (10)はベルリンの次に東京で開催される予定であった。しかし、その開催は実現せず、初めて東京で(10)が開催されたのは1964年のことであった。

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次の文章を読み、それぞれ(1)〜(10)の設問について [ ]内の語句から最も適切と思われるものを選び,その記号を解答欄にマークしなさい。

イギリス東インド会社が、(1) [ 1 ポンディシェリ  2 シャンデルナゴル  3 プラッシー  4 マドラス]においてフランス・ベンガル王侯軍に勝利したのち、ベンガル、ビハール、オリッサにおいて徴税を行う権利、すなわち (2) [ 1 アシエンダ  2 アーヤーン  3 ディーワーニー  4 マワーリー] を獲得したことは、イギリスがインドに植民地統治機構を確立していく端緒となった。1818年には、(3) [ 1 マラーター同盟  2 ヴィジャヤナガル王国  3 マイソール王国  4 チャールキヤ朝]を滅ぼし、デカン高原を手中に収めた。とくに、1857年に起こった(4) [ 1 クルド  2 シパーヒー  3 バース党  4 ラージプート]の反乱を鎮圧すると、イギリスはムガ
ル皇帝(5) [ 1 バーブル  2 バハードゥル=シャー2世  3 シャー=ジャハーン  4 アウラングゼーブ]を退位させるとともに東インド会社を解散させ、直接統治に乗りだすにいたった。その後、イギリスが推し進めた直接統治政策によって、半世紀ほどの間にインド社会に大きな変化が生まれたことも見逃せない。英語の高等教育を受けたインド人協力者層が中産階層として台頭したことはその一つである。彼らは二重言語を駆使するエリート層であり、イギリスをはじめとする欧米社会に長期間滞在し、留学等をつうじて法律・経済・自然科学等を学んだ経験を持つ官僚予備軍でもあったが、西欧社会に対する理解を深めるにつれ、しだいにイギリスのインド支配の現実に目を向けるようになった。
イギリスのインド支配を厳しく批判したパールシー人ナオロージーもそうした海外体験を持つ知識人の一人であった。インドのパールシー人は、8世紀、ペルシアのパールサからイスラーム勢力の圧迫を逃れ、インドのムンバイに移住した(6) [ 1 バクティ  2 シク  3 ゾロアスター  4 バーブ]教徒がその起源とされる。現在でも約10万人の(6)教徒がムンバイに暮らしている。彼らのなかには商業・金融業などを営む者が多く、また、インドの伝統的な身分制度である (7) [ 1 ザミンダーリ制  2 カースト制  3 マンサブダール制  4 ライヤットワーリー制]の束縛からは自由で、社会改革・福祉運動などで活躍する者も少なくなかった。
ムンバイに生まれたナオロージーは、渡英後ロンドンで商業活動を営むかたわら、イギリスのインド支配について思索を深め、1876年、「インドの窮乏」と題して講演するなど、活発な言論活動を展開した。そのなかで、ナオロージーは、インド政庁の財政収入のうち、約半分に相当する額が、英本国インド省関係費、退職官僚に対する年金、在職官僚の本国送金などの形で、イギリスに流出していること、しかも1835年から1872年までの間に、その額が約5倍に増大している事実を実証的に明らかにし、これがインドの貧困の主要な原因である、と結論づけた。いわゆる「富の流出」理論である。「富の流出」問題自体は、 (8) [ 1 纏足  2 サティー  3 割礼  4 コルセット]の習俗を批判する運動を展開したことで知られる社会運動家ラーム=モーハン= ローイによっても1830年代初めに注目されていたが、ナオロージーは各種統計資料を駆使し、イギリスの経済学者の見解をも批判的に咀嚼しながら、ナショナリズム運動の基礎理論として体系化したのであった。その後、ナオロージーはインドに帰国し、インド国民会議派の創設に関わり、 1906年、コルカタで開催された同派の大会では議長に選出された。当時、イスラーム教徒を多数擁する東ベンガルと多くのヒンドゥー教徒をかかえる西ベンガルとの分割を目指した、いわゆる(9) [ 1 インド統治法  2 ローラット法  3 カーゾン法  4 新インド統治法]に対する反対運動が激しく展開していたが、ナオロージーは、この運動の中でティラクらの提起した (10) [ 1 スワデーシ  2 スワラージ  3 サティヤーグラハ  4 ヒラーファト]、すなわち自治獲得のスローガンを、上記の大会において改めて提起し、綱領として採択させた。(10)の思想は、その後のインドの民族運動に大きな影響を与えることになるが、その背景には、ナオロージーら新
興植民地知識人による、ヨーロッパ近代の実証的な経済分析に裏づけられたナショナリズムの理論化の努力があったことを忘れてはならないだろう。

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IV

以下の各文章1〜6にはそれぞれ明白な誤りが一つずつ含まれている。誤りの語句を解答用紙所定のA欄に、それに代わるべき正しい語句をB欄に記入しなさい。また各文章1〜6に付された設問(1)〜(6)の答えを解答用紙所定の欄に記入しなさい。
1.中国においては学者や知識人たちが政権を批判し,時に弾圧されることがたびたび起きた。秦の始皇帝が自らの政治に批判的であるとして民間における書籍の所持を制限し、儒家を中心とする学者を弾圧したとされる「焚書・坑儒」はつとに有名である。また前漢の武帝が行った塩・鉄・酒の専売制などの政策に反発した知識人と政策を推進した御史大夫の桑弘羊との間に行われた激論は『塩鉄論』として今日に伝わっている。後漢時代には政権をにぎる宦官の腐敗した政治に対 して儒家官僚ら知識人たちは批判を繰り広げたが、宦官たちの弾圧にあい、知識人たちは獄につながれたり免職させられたりした。この事件のことを文字の獄と言う。

設問(1) 宦官の中には文化的な事業で後世に名を残している人物もいる。後漢時代の宦官で、製紙法を改良したとされる人物は誰か、漢字で記しなさい。

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設問1 宦官の中には文化的な事業で後世に名を残している人物もいる。後漢時代の宦官で、製紙法を改良したとされる人物は誰か、漢字で記しなさい。

2. 中国では前6000年紀までには黄河流域においてアワ・キビなど雑穀を中心とした畑作が始まっていた。前5000年紀の温暖期には、黄河中流域では灰陶を特色とする仰韶文化が繁栄した。この時期の人々の居住形態はいわゆる環濠集落で、まだ階層分化が進んでいない。前3000年紀に黄河中・下流域を中心に栄えた竜山文化では黒陶が有名だが、竜山文化期の遺跡からは戦争犠牲者や大型化した武器が見つかっており、集落間の抗争が激化したことや、巨大な城壁を持つ集落の出現や首長層とその他の集落構成員の間で墓の規模の格差が目立つようになり、階層分化と権力の集中が進んでいることがうかがえる。

設問(2) 中国では、新石器時代、黄河流域以外にも各地において独自の文明が栄えていたことが近年わかってきている。これらの諸文明のうち、仰韶文化と同じころ、前5000年紀を中心に長江下流域において栄えていたある遺跡では、大量の稲もみや農具などが出土し、初期の稲作農耕の様子を伝えている。この遺跡の名称を漢字で記しなさい。

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設問2 中国では、新石器時代、黄河流域以外にも各地において独自の文明が栄えていたことが近年わかってきている。これらの諸文明のうち、仰韶文化と同じころ、前5000年紀を中心に長江下流域において栄えていたある遺跡では、大量の稲もみや農具などが出土し、初期の稲作農耕の様子を伝えている。この遺跡の名称を漢字で記しなさい。

3.唐の太宗はモンゴル高原に勢力をもっていた東突厥を服属させ、西北地域の遊牧諸部族の長たちから彼らのリーダーを意味する「天可汗」と称された。また次の皇帝である高宗は、隋の場帝や父の太宗が何度も遠征に失敗してきた新羅を破り、これを滅ぼした。同じく太宗・高宗の頃、唐は中央アジアの西突厥を圧迫して高昌・亀茲などの西域オアシス国家も服属させ、唐は空前の世界帝国となった。こうした情勢を背景として唐の都長安には諸国・諸地域からの朝貢使節や留 学生・商人たちが集まり、仏教・道教以外にも景教・泳教・マニ教などの寺院が建てられた。

設問(3) 唐代には、白・緑・褐色を基調とした色合いをもち、副葬品として墓に埋葬することを目的につくられた陶器が流行した。この陶器は器物のほか人物や動物が表現されることが多く、胡人(西方の人々)やラクダなどもしばしば見られ、当時の国際色豊かな文化を伝えている。この陶器を何というか。漢字で記しなさい。

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設問3 唐代には、白・緑・褐色を基調とした色合いをもち、副葬品として墓に埋葬することを目的につくられた陶器が流行した。この陶器は器物のほか人物や動物が表現されることが多く、胡人(西方の人々)やラクダなどもしばしば見られ、当時の国際色豊かな文化を伝えている。この陶器を何というか。漢字で記しなさい。

4.儒教の経典を指す語として「四書五経」という言い方がよく用いられる。ただ、唐の太宗の命によって孔索達らが編纂した儒教経典への注釈書が『五経正義』であったことからも分かるように、当時は儒教の経典といえば「五経」が中心だった。だが、南宋の朱嘉が確立した朱子学では「四書」が特に重視された。「四書」とは『大学』『中庸』『論語』『孟子』を指す。もちろん、彼も「五経」を軽視したわけではないが、彼の「四書」への注釈書『四書集注』は、中国ばかり でなく、日本や朝鮮でも絶大な影響を与えた。なお、「四書」については、15世紀の明の洪武帝の時代に『四書大全』が編纂され、科挙における標準的解釈とされた。

設問(4) 北宋の王安石も、『三経新義』という儒教の経典についての注釈書を著している。彼はいわゆる「新法」を推進したことでも知られるが、貧農のために植え付け時に金銭や穀物を低利で貸し付ける政策は何と呼ばれるか。「〜法」という形でその政策の名称を答えなさい。

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4.正しいことば

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設問4 北宋の王安石も、『三経新義』という儒教の経典についての注釈書を著している。彼はいわゆる「新法」を推進したことでも知られるが、貧農のために植え付け時に金銭や穀物を低利で貸し付ける政策は何と呼ばれるか。「〜法」という形でその政策の名称を答えなさい。

5.明末から清初にかけて,多くのイエズス会の宣教師が中国を訪れた。フランシスコ=ザビエルは日本での布教の後、中国に向かったが、中国本土への布教を果たせずに亡くなった。マテオ=リッチは明の高官にも信者を獲得し、『幾何原本』を徐光啓とともに漢訳したり、『坤輿万国全図』の作製に携わったりした。清もイエズス会の宣教師の知識・技術を重用し、明末から暦学の分野などで活躍してきたアダム=シャールは、清では欽天監監正という、現代でいえば国立天文台の長官のような役職に就いた。フェルビーストも清に仕え、宮廷画家として西洋の画法による絵画を多く残し、円明園の西洋風建築の設計にも参画した。

設問(5) 清ではいわゆる「典礼問題」をきっかけとして、雍正帝の時代にキリスト教の布教が禁止された。その後、中国の内地でのキリスト教布教権が認められたのは、19世紀のことであった。中国の内地でのキリスト教布教権を認める条約が結ばれるきっかけとなった戦争の名称を答えなさい。

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22 学習院 経済 世界史 4-5

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5.誤っていることば

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5.正しいことば

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設問5 清ではいわゆる「典礼問題」をきっかけとして、雍正帝の時代にキリスト教の布教が禁止された。その後、中国の内地でのキリスト教布教権が認められたのは、19世紀のことであった。中国の内地でのキリスト教布教権を認める条約が結ばれるきっかけとなった戦争の名称を答えなさい。

6. 明末清初に生きた黄宗義は考証学の先駆者とされることがあるが、彼の師は陽明学の流れを汲む劉宗周、彼の父は明代の東林派のリーダーの一人であった。考証学が全盛を迎えるのは乾隆・嘉慶期で、この時期の代表的な学者としては、銭大昕などがいる。清は、当時の書籍を網羅した叢書として乾隆帝が編纂させた『古今図書集成』などの大規模な文化事業を行って伝統的学問を保護・振興する一方、反清的な言論を厳しく弾圧した。それも一因となって、考証学は非政治的な実証研究という傾向を強め、実践性が薄れていったとされる。太平天国に対抗した湘軍の指導者の曾国藩は儒学者としても著名だったが、彼の学問は考証学の主流とは異なる立場の学派につらなるものであった。

設問(6) 銭大昕は1804年に没したが、彼の晩年は白蓮教徒による大規模な反乱が起こった時期にあたる。この反乱の鎮圧にあたっては、清の正規軍とは別に、地方の有力者などが編成した武装集団が大きな役割を果たした。後の太平天国の反乱に際しても力を発揮したこのような武装集団を何と呼ぶか。漢字2字でその名称を答えなさい。

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22 学習院 経済 世界史 4-6

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6.正しいことば

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設問6 銭大昕は1804年に没したが、彼の晩年は白蓮教徒による大規模な反乱が起こった時期にあたる。この反乱の鎮圧にあたっては、清の正規軍とは別に、地方の有力者などが編成した武装集団が大きな役割を果たした。後の太平天国の反乱に際しても力を発揮したこのような武装集団を何と呼ぶか。漢字2字でその名称を答えなさい。

V

次の文章は,J.G.A. ポーコック 『島々の発見——新しいブリテン史と政治思想』の文章を一部抜粋したものである(文章を変更した箇所がある)。この文章を読んで、下記の設問(1)〜(13)に答えなさい。

西オーストラリア、東オーストラリア、ニュージーランドは、大洋が複雑に交差する場所に位置していた。ここでの入植では、先住民との遭遇があった。入植者が必要としたのは、彼らの労働ではなく土地であった。 ( 1 ) とアボリジニの社会の大きな違いや、植民地化に対するそれぞれの対応の大きな違いゆえ、ニュージーランドの歴史にはオーストラリアの歴史とは異なった特徴がある。しかし両者は、いずれも、(2)初期の段階から「白人」の労働者階級の入植者が存在したことを特徴とする点において極めて似ている。
( 3 ) として存続した期間(ニュージーランド:1907-1949)、入植者たちは、大英帝国と呼ばれたものの存在を深く信じていた。1940年代のニュージーランドは(4)第二次世界大戦に関与して、第一次大戦のときほどではなかったが、相当の人的損失を被った。この時代は,歴史家が「プロテイン・ブリッジ」と名付けたものにニュージーランドが位置した時代と重なる。「プロテイン・ブリッジ」とは、ニュージーランドの牧産品(( 5 )、羊肉、バター)が、主要市場たる連合王国の都市住民の食料・衣料として運ばれた海路のことである。そのブリッジには、実際には3つの経路があった。(6)パナマ、スエズ、ケープタウン経由である。3つのルートのうち、(7)スエズ・地中海を経由するルートは、二重の意味で重要であった。戦争の舞台であり、かつ帝国の舞台だったからである。ニュージーランド人が大英帝国のイメージに対して抱いていた深いコミットメントは、エジプト人、アフリカ人、インド人に対する支配よりも、自分たちと英国との関係に関わっていた。それは対等なパートナーシップであった。それゆえ彼らが構成した「帝国」は、(( 8 ) のフレーズを借用すれば)「自由の帝国」として理解されて、西洋政治思想の鍵となる支配権と自由の相互関連のなかに見出せる。
17世紀から20世紀にかけて英国人やヨーロッパ人の入植によってつくられた社会の多く――(9)ニュージーランド、オーストラリア、カナダ、アメリカ合衆国――では、先住民が政治的な復活を果たしている。彼らが先住民と呼ばれるのは、彼らの祖先がヨーロッパ人の入植以前からそこに住んでいたからであるし、多くの場合には、そうした祖先が彼らにとって直接的に重要な存在であり続けているからである。復権を果たしたこれらの人々は自分たちの要求をイングランド的な多数派文化の言語や法に基づいて表明している。彼らが主張するのは権利、正義、補償である。彼らは(10)コモン・ローと万民法(jus gentium)の原理に依拠する。しかし、同時に彼らは、自分たちの原生性や、ヨーロッパ人入植に先立って存在した文化であるという自分たちの地位を主張する。ここにはパラドクスが残っている。この問題は、(1) と入植者は相互交渉をめぐる単一の歴史をもつのか、それともお互いに両立しない2つの歴史をもつのか、という問題でもある。この問題が生じるのは、政府と支配権が、主権という言葉を(11)ロック的な意味の2つの次元において用いる場合には、どちらも「主権」と翻訳できるからである。ここにおいて「主権」は、概念化と所有の次元において、権威と行動の次元において、自らの歴史を構築する権力を意味するようになる。歴史を書くことには、自らの歴史を構築するという主張が伴いうる。しかし何に対して、誰に対して、そうした主張を向けることができるのであろうか。
主権の基礎の検討と再定義は、1984年から90年の第4次労働党政権下で開始された。かつて王権が獲得した土地を国有企業に移譲するという決定に対して、先住民のワイタンギ審判所がワイタンギ条約(注)をもち出して自らの権威を根拠づけ、さらに、(1) が沖合漁場に対する(12)先祖伝来の文化の力を取り戻し、(13)韓国や台湾に本部を置く事業計画に対する漁業権売却交渉を行おうとした。(1)と入植者は、主権が彼らの足下から売却されているにもかかわらず、主権について改めて取り決めをしている。(1)と入植者のいずれも、自分たちの土地と支配権を取り戻したいと願い、それらを求めるために、それらが依然としてそこにあるのかどうかを決めることから始めなければならない。

(注)ワイタンギ条約:1840年にニュージーランド北島の先住民と英国政府の間に 結ばれた条約。この条約によりニュージーランドは英国の植民地となった。条約には、先住民が国王に主権を譲渡し、国王は先住民の権利を保護し、土地売買は国王との間でのみ認められ、先住民は英国国民の持つすべての権利を享受することが定められた。

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(1) 空欄 ( 1 ) に入るポリネシア系先住民の名称を答えなさい。

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(2) 下線部(2)について、1840〜60年代に防衛費など政府の財政負担を増やす白人移住植民地に責任政府を樹立し、分離させようとした「植民地不要論」を唱えた自由貿易論者2人の名前を答えなさい。この2人は、反穀物法同盟を結成し、運動を推進していたことでも知られる。2人はアイウエオ順に答え、の名前の間に空白、点などは不要である。

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(3) 空欄(3) に入る大英帝国の領域の名称を答えなさい。これらニュージーランドを含む合わせて6つの領域は、1931年のウェストミンスター憲章で規定されたイギリス連邦を構成し、それぞれ立法と司法において独立の権限を有することが定められ連合王国と対等な地位での責任政府樹立が認められた。領域の連合体は「君主に対する共通の忠誠心で結ばれたもの」とされた。

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(4) 下線部(4)について、この戦争終結後,サンフランシスコ講和条約の締結の直前に、ニュージーランドとオーストラリアがアメリカと結んだ条約の名称をアルファベットで答えなさい。1985年にニュージーランドが、アメリカの核を搭載した船の寄港を拒否する非核政策を取ったため、アメリカは翌年ニュージーランドとの防衛協力を停止した。

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(5) 空欄( 5 )に入る牧産品の名称を答えなさい。この原料を用いた産業において、連合王国は問屋制・マニュファクチュアによる生産を拡大させ、18世紀中頃までに世界最大の生産国として台頭していた。

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(6) 下線部(6)について、1881年に運河開削に着手したが、熱帯雨林地帯の軟弱土壌や黄熱病の蔓延にはばまれて失敗したフランス人外交官・実業家の名前を答えなさい。この人物は、約10年前にスエズ運河の建設に成功していた。

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(7) 下線部(7)について、1875年にエジプト総督所有のスエズ運河会社株を買収して、帝国主義政策を開始した保守党政治家で、連合王国首相となった人物の名前を答えなさい。この首相の時代、政府は、この会社株購入に際して、ロスチャイルド家の融資を受けた。

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(8) 空欄 ( 8 ) に入るアメリカ合衆国大統領の名前を答えなさい。この政治家は、合衆国建国期に独立宣言起草の中心として貢献し、自営農民を基礎とする民主主義を理想として、理念的には奴隷制に反対であったが、自らのプランテーション奴隷を解放して自由を与えることはなかった。

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(9) 下線部(9)について、17世紀にオランダ東インド会社から派遣され、ニュージーランド、 トンガ、フィジー、オーストラリア沿岸に到達した、オランダの航海者の名前を答えなさい。

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(10) 下線部(10)は連合王国で行われている判例尊重主義の法体系である。12世紀後半から国王裁判所での先例にもとづいて体系化が進められた。イングランド王ジョンが1215年に発し、この法体系の発展の基礎をつくった勅許状(憲章)の名称をカタカナで答えなさい。

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(11) 下線部(11)について、この政治思想家・哲学者が著し、1690年に発刊された書籍の名称を答えなさい。この著者は、自然状態で平和や自由を享受する人間は、契約により自然権の一部を委譲して政府を形成した、とする社会契約説を展開した。また革命権を肯定し、市民社会の構成原理を明らかにして、名誉革命を理論的に正当化した。

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(12) 下線部(12)について、民族集団がそれぞれの文化の独自性を保持しつつ、他民族の文化を尊重すべきとする考え方の呼び名を答えなさい。1970年代以降、先住民 文化を尊重すべく、ニュージーランド、オーストラリア、カナダで唱えられた。

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(13) 下線部(13)について、韓国、日本、ASEAN諸国、アメリカ、カナダが、1989年にニュージーランド、オーストラリアと結成した会議の名称をアルファベットで答えなさい。 ニュージーランドは2021年の議長国となり、「共に参加し、共に取り組み、共に成長する」をテーマとした。

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