22年 上智 TEAP 世界史 

問題演習

2020年、アメリカ合衆国において黒人男性が白人警察官による過剰な拘束行為を受けて死亡する事件が起きると、これをきっかけにブラック・ライブズ・マターと呼ばれる反人種差別運動のうねりが巻き起こった。この運動は、こんにちも消えることのない黒人に対する人種差別への抗議にくわえ、過去の奴隷制にゆかりのある人物の彫像を引き倒す、または撤去を求めるというあらたな展開も徐々に見せていった。そして、こうした動きはアメリカ合衆国の国内にとどまらずヨーロッパなどにも波及し、(1)攻撃の矛先は植民地主義者やその他の人種差別的な人物にも向けられ、そうした歴史的行為の責任をあらためて問うかたちとなったのである。

黒人差別への抗議運動が、奴隷貿易や植民地支配をも標的とすることはけっして便乗などではない。どちらも黒人差別とは切っても切れない関係にあったからである。300年以上にもわたる(2)大西洋世界の奴隷貿易と奴隷制は、おびただしい数の黒人をまるでモノのように売り買いし使役することで、ヨーロッパ諸国の繁栄を支える富を生み出し続けた。これを正当化するかたちで、ヨーロッパでは黒人は「野蛮」であり、自分たちと同じ人間にはあらずといったイメージが流布され、黒人に対する差別意識が定着していったのであった。 

18世紀後半になると、そうしたヨーロッパでも、人道主義的な観点から黒人奴隷も人格を持った人間であると考え奴隷貿易・奴隷制の残虐性を非難する人びとが現れてくる。この奴隷貿易・奴隷制の廃止運動が実を結び、19世紀に入ると順次大西洋世界の奴隷貿易・奴隷制度は廃止へと向かう。だが、ヨーロッパがアフリカのほぼ全域にもたらした次なる局面は植民地支配にほかならなかった。反奴隷貿易・奴隷制運動家たちのなかには、黒人奴隷貿易の元凶をアフリカ社会が「野蛮」で「未開」であることにみいだす人びともいた。そうした状態からアフリカの人びとを救い出す手段こそ、ヨーロッパによる植民地支配なのだとする考え方は、したがって、彼らにとっては人道主義とけっして矛盾しなかった。しかしながら、(a)ヨーロッパによる植民地支配が現地住民に恩恵をもたらすという理屈はアフリカの人びとが実際に経験した植民地支配の実態からかけ離れており支配者側にとって都合のよい建前であるかせいぜいのところ理想論でしかなかった。そればかりかその建前もしくは理想論それ自体さえる、黒人に対する差別意識を内包するものであったといわざるをえない。

その後、20世紀の時の流れのなかで、民族自決の考えが支配的となって植民地主義は批判されるようになり、アフリカを覆い尽くしていた植民地支配も徐々に姿を消していった。しかし、それとともに黒人に対する差別が消滅したわけではない。奴隷制や植民地支配から脱したのち、20世紀後半に入ってからもなお黒人に対する人種差別の法制度を維持し続けた南アフリカやアメリカ合衆国のような国すらあった。こうした国ぐにでは、もはや奴隷でも植民地住民でもない黒人たちへの扱いは、差別ではなく単なる分離であるという名目で正当化されたが、実際には白人との待遇の差はあきらかであった。

南アフリカの場合、イギリスの植民地から1910年に自治領に移行すると、住民の少数にあたる白人が支配権を握り、圧倒的多数を占める黒人をはじめとする非白人を隔離・差別する諸法が制定されていった。1940年代末以降、(3)人種隔離は国の体制の根幹となるべく体系化が進められ、1961年の完全独立後もしばらく維持されたのであった。表向きには、異なる人種同士は文化、言語等の違いゆえ、それぞれ独自に発展していくべきだと謳われたが、白人と有色人種とでは享受できる権利の差は歴然としていた。

一方、(4)アフリカの黒人を奴隷として受け入れた南北アメリカ地域でも、奴隷制が廃止されたからといって社会に根付いた黒人に対する差別意識が消滅することはなかった。(b)アメリカ合衆国では、それにくわえて人種差別的法制度さえ20世紀後半に至るまで存続した。 

このような南アフリカやアメリカ合衆国における法制度も20世紀末までには撤廃されたが、それでも人種差別の慣行そのものは21世紀に入ってからも、世界からけっして消え去ってはいない。こうした認識をもとに、2001年には国連反人種主義世界会議(ダーバン会議)が開催され、過去の奴隷貿易や植民地支配は人種主義の源泉かつ表現であったとしてその罪をあらためて認識し、その再発防止と現代への影響の根絶の必要性が宣言された。しかし、その直後に(  )が発生すると、イスラームの人びとやアラブ系の人びとに対する差別的意識・行為が世界のいたるところで見られた。

国連はまた、アフリカ地域外の国ぐににおいて、多くの場合マイノリティとしていまなお人種差別の主要な被害者であり続けるアフリカにルーツを持つ人びとに着目し、2015年からの10年間を「アフリカ系の人々のための国際の10年 (International Decade for People of African Descent)」と定めて、これらの人びとに対する「承認、公正、開発」の必要性を訴えた。

こうした国連の活動にもかかわらず、世界における人種差別が根絶へと向かう 気配は一向に見られない。2019年以降の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大に際しても、世界各地でアジア系の人びとに対する人種差別的行為の発生が報告されている。前述の国連反人種主義世界会議が、その宣言のなかで示した次のような懸念がまさに現実のものであることを、われわれはまのあたりにしているのである。「人種主義、人種差別、外国人排斥、そしてそれらに関連する不寛容は、継続して暴力的なかたちで起こっており、特定の人種や文化が他に優越するという植民地時代に喧伝および実践された理論が、こんにちでさえ様々にかたちを変えて提起され続けている」。

人種差別はけっして過去のもの、もしくはその単なる残滓などではなく、ふとしたきっかけによりいつでも顕在化しうるものと認識し、それを阻止するための不断の努力がわれわれ人類には求められているのだと肝に銘じておかねばならない。

設問1 以下の(1)から(5)に答えなさい。

3

22 上智 TEAP 世界史

1 / 5

(5) 問題文中の空欄にあてはまるものとして、もっとも適当なものを次のなかから1つ選びなさい。

2 / 5

(3) 下線部(3)について、南アフリカにおいて体系化された人種隔離の制度は何と呼ばれたか。次のなかから1つ選びなさい。

3 / 5

(1) 下線部(1)に該当する人物に関する次の記述のうち、誤りを含むものを1つ選びなさい。

4 / 5

(4) 下線部(4)に関する次の記述のうち、誤りを含むものを1つ選びなさい。 

5 / 5

(2) 下線部(2)に関する次の記述のうち、誤りを含むものを1つ選びなさい。 

設問2 下線部(a)に関し、19世紀から20世紀にかけて、アメリカ合衆国の黒人が経験してきた人種差別的法制度の存続・制定・廃止といった変遷について、節目となった時期(たとえば、「2020年代」のように10年刻み程度でよい)を明示しつつ、以下の用語をすべて用いて(順序は問わない)200字以内で説明しなさい。なお、使った用語には必ず下線を引くこと(同じ用語を複数回使う場合には、下線は初出の1箇所のみで構わない)。

【用語】 奴隷制 南部諸州 南北戦争 キング牧師 

解答例表示は下をクリック

  

簡単な解説表示は下をクリック

  

設問3 以下の引用文は、ポルトガルの植民地であったモザンビークの独立運動 指導者E・モンドラーネが、独立の数年前に刊行した自著のなかで展開した植民地支配批判の一部である。これも参考にした上で、あらためて問題文中の下線部(b)について考えたとき、植民地支配の理屈と実態とは、それぞれ具体的にどのようなものであったといえるか。また、理屈が建前だと判断される根拠は、引用文で紹介されているモザンビークの《同化民》をめぐる状況のどのような点にみいだすことができるだろうか。これらの問いのどちらについても、黒 人に対する差別意識との関わりに言及しながら300字程度で論じなさい。 

解答例表示は下をクリック

  

簡単な解説表示は下をクリック

  

エネシュ*のアプローチは明快で実際的であった。植民地はポルトガルに利益と威信を与えるべく利用されなければならない。これは、征服が完了され、征服地の支配を確保するために行政組織がつくられ、つぎには経済収奪が精力的に遂行されなければならないことを意味した。もっとも優先的に考えられるべきことは、ポルトガルにとっての効用であった。使命などという概念は 理論家と擁護者にまかせておけばよかった。

(中略) 

1921年の《原住民援助法は、ポルトガル語を話すことができ、あらゆる部族 慣習を捨てた正規の有給雇用者を文明化されたアフリカ人として定義づけた。該当者は完全なポルトガル市民と見なされることになったが、他方、この定義に該当しないすべてのアフリカ人は、《行政官》の支配下におかれた。これが《同化民》制度の基本であり、これによってアフリカ人住民は、本質的にポルトガル的な生活様式をとりいれたと想定されるきわめて少数の《同化民》と、アフリカ人住民の圧倒的多数を構成する《原住民》とに分割された。

(中略)

《原住民》は市民権をもたず、身分証明書(原住民カード)を携行しなければな らず、《原住民制度》のあらゆる規定にしたがわされた。《原住民制度》は《原住民》に労働の義務を課し、日没後は町の一定地域から締めだし、特別検閲ずみの映画を見せる映画館をふくむ2、3の娯楽場に制限した。白人および《同化民》は、理論上は、ポルトガル市民権に付随するあらゆる特権をもった。 

(中略) 

《同化民》は白人と真に同等の地位に達することができると提起されているが、それを完全に無意味にしてしまっている1つの事実がある。すなわち、《同化民》は彼のいかなる権利もそれを享受するためには、つねに身分証明書を持ち歩かねばならないのである。白人は尋問されることはない。白人はその容姿により特権的地位を保有するのである。

《同化民》が夜間外出禁止時刻後、外に出れば、きまって警察の尋問をうける。もし身分証明書をしめすことができなければ、彼は逮捕されるだろう。多くの特権は身分証明書をもっていてさえ主張できない。たとえば、同化アフリカ人は白人の映画館に入れない。白人用トイレットをしばしば使うことはできない。

(中略)

ヨーロッパ人やアメリカ人のあいだでは、人間の思考すべてを西洋の精神に由来するものと考えるのが通例となってきた。とくにアフリカは人類の発展になんの貢献もしなかったと考えられ、ヨーロッパの侵入の結果、はじめて発展の主流に引き入れられた、閉鎖的で完全に後進的な世界と見なされた。しかし、近年の学問は、これが西洋思想の内向性と自民族中心主義の産物であることを明らかにした。 (E・モンドラーネ『アフリカ革命 = モザンビークの闘争』野間寛二郎・中川忍訳、 理論社、 1971年、43~71頁 ※一部改変) 

* 19世紀末のモザンビークにおけるポルトガル植民地政策の責任者。 

コメント