世界史上の学者や知識人について述べた次の文章A~Cを読み、後の問い (問1~9)に答えよ。(配点 27)
A シーボルトは、1796 年にドイツで生まれた。大学で医学に加え、a解剖学・植物学・薬学などを学んだ彼は、1822 年にオランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任じられた。翌年には、東南アジアにおけるオランダの拠点だった( ア )に到着し、そこで出島商館の医官として日本での勤務を命じられた。シーボルトが医官として勤務しながら、日本について博物学的研究を進めたことはよく知られている。
1829年に日本を離れたシーボルトは、オランダやドイツを拠点に膨大な著述を残した。そのうち、『日本』は1832年から1851年にかけて20分冊が刊行された大著で、日本とその近隣国に対する総合的研究の成果である。
上の図は、同書に載せられた挿絵の一つで、日本に漂着した朝鮮人が囲碁に興ずる姿が描かれている。b朝鮮王朝(李朝)では、明に倣って自国民の海外渡航を禁じていたが、海難事故によって日本や中国、琉球などに朝鮮人が漂流、漂着することがしばしばあった。長崎経由で本国に送還される朝鮮漂流民たちに、シーボルトは会い、朝鮮に関する情報をも手に入れていたのである。
問1
下線部aの学問のいずれかに対応する、中国における成果について述べた文として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
問2
次の図中に示したa~dのうち、前の文章中の空欄( ア )の都市の位置として正しいものを、後の①~④のうちから一つ選べ。
問3
下線部D)に関連して、中国と朝鮮との関係の歴史について述べた文として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 唐が、朝鮮北部に楽浪郡を置いた。
② 隋が、高句麗に遠征軍を送った。
③ 清が、南京条約で朝鮮の独立を認めた。
④ 朝鮮が、明で創始された科挙を導入した。
B 次の資料は、9世紀にイラン北東部の都市ニーシャープールで生きた、ハサン=プン=イーサーという人物の伝記記事の概略である。
資料
ハサン=ブン=イーサーは、cキリスト教を信仰する裕福な旧家の出身であったが、イスラーム教に改宗した。そして、イスラーム諸学の知識を求めて旅をし、各地の師に会って学んだ。彼は、信心深く敬虔で、学識の確かな者であった。ニーシャープールの法学者やハディース学者は、彼を高く評価してきた。彼はヒジュラ暦239年シャウワール月(西暦 854年3月頃)に、「預言者 ムハンマドが、『ナルド(注)で遊ぶ者は、神と神の使徒(預言者)に背いてい る』と言った」というハディースを講じた。彼のハディースの講義には、1万 2千人が出席した。 彼はヒジュラ暦240年(西暦855年頃)に死去した。
(注) ナルドーボードゲームの一種。
上の資料から、ハサン=ブン=イーサーが、( イ )として活躍し、特に( ウ )の分野で評価されたことが読み取れる。
問4
前の文章中の空欄( ィ )に入れる語あ・いと、空欄( ウ )に入れる語句X・Yとの組合せとして正しいものを、後の①~④のうちから一つ選べ。
( イ )に入れる語
あ ウラマー
い スーフィー
( ウ )に入れる語句
X 神との一体感を求める神秘主義の研究と教育
Y 預言者ムハンマドの言葉や行為に関する伝承の研究と教育
問 5
イランにおける下線部cの宗教の歴史について述べた文として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① サファヴィー朝の国教となった。
② ネストリウス派が伝わった。
③ カニシカ王が保護した。
④ イスラーム教と融合して、シク教となった。
問6
ハサン=ブン=イーサーが生きた時代のイランでは、彼のように、イスラーム教に改宗する人が増加し、イスラーム教徒が人口の多数派を形成するようになっていった。その背景として、アッバース朝の下で起こった出来事の影響が考えられる。その出来事について述べた文として最も適当なものを、次の①~ ④のうちから一つ選べ。
① バーブ教徒の反乱が鎮圧された。
② ダレイオス1世によって、ペルセポリスの建設が始められた。
③ アフガーニーによって、パン=イスラーム主義が唱えられた。
④ アラブ人の特権が廃止され、イスラーム教徒平等の原則が確立された。
C 次の資料は、近代中国の学者である王国維が著した論文の一部である。(引用文には、省略したり、改めたりしたところがある。)
資料
およそ歴史を研究する際、ある民族の歴史を知るためには、別の民族によって書かれた記録に頼らないわけにはいかない。例えば、塞外(注)の民族である匈奴や鮮卑、西域の諸国については、中国の正史に記載があるほかには、信頼できる歴史記録はほとんどない。
その後、契丹と( エ )の文化が発展したが、彼ら独自の文字は既に使わ れなくなり、それぞれの民族について、漢語で編纂された『遼史』と『金史』が あるほかには、やはり信頼できる歴史記録はほとんどない。
モンゴルについて言えば、今日でも広大な土地と独自の文字を有している が、人々はd宗教に夢中となり、学問を重視しなかったため、古い時代の 史書の原本は元のままでは残っておらず、むしろ漢語やペルシア語の文献に よって伝わっている。
(注) 塞外一長城の外側。
モンゴルが学問を重視しなかったという説明は乱暴に過ぎるが、史料が様々な理由で失われうることは事実である。一方、残された史料の方も鵜呑みにしてよいとは限らない。王国維は上の文章に続けて、モンゴルについて記すある漢語史料の信頼性に問題があることを論じている。
問7
前の資料中の空欄( エ )の民族の歴史について述べた文として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 猛安・謀克という軍事・社会制度を用いた。
② ソンツェン=ガンポが、統一国家を建てた。
③ テムジンが、クリルタイでハンとなった。
④ 冒頓単于の下で強大化した。
問8
下線部dのような王国維の理解は、モンゴル人がチベット仏教を篤く信仰したことを踏まえたものと考えられる。チベット仏教の歴史について述べた文と して最も適当なものを次の①~④のうちから一つ選べ。
① ワッハーブ派が、改革運動を起こした。
② ガザン=ハンが、黄帽派(ゲルク派)に改宗した。
③ ダライ=ラマ 14 世が、インドに亡命した。
④ 北魏による手厚い保護を受けた。
問9
前の文章が述べるように、ある民族や集団について研究する際に、別の民族や集団が残した記録を史料とする例は少なくない。次の研究あ・いが、その例に当てはまるか当てはまらないかについて述べた文として最も適当なものを、 後の①~④のうちから一つ選べ。
研究
あ 『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)を用いた、邪馬台国についての研究
い パスパ文字(パクパ文字)で書かれたフビライの命令文書を用いた、元朝についての研究
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