1-27 ヘレニズム三国とイラン

世界史

ヘレニズム三国

BC323年 アレクサンドロス大王がバビロンで死去

→ 後継者=(1      )の争いが激しくなり、帝国分裂

(2      )

BC276年 アンティゴノスが建国、都:ペラ

※ 一瞬(BC301~297)だけカッサンドロス朝マケドニアが成立、カッサンドロスはアレクサンドロスの妻や子を殺して王となった重臣、アンティゴノス死後王位についたが結局アンティゴノスの子孫に王位を取り戻された

(3      )

セレウコス1世が建国、シリアを中心にペルシア領を継承

→ BC3C、ペルガモン・バクトリア・パルティアが独立

最後はポンペイウスによって滅亡

(4     ) 

エジプトの伝統を取り入れ、ファラオが統治、都:アレクサンドリアはヘレニズムの中心地となる

BC30年 プトレマイオス朝の滅亡までを(5      )と呼ぶ

※ ヘレニズム3国の王はすべてギリシア系の人(マケドニア人)

※ カッサンドロス朝(マケドニアの重臣カッサンドロスがアレクサンドロスの妻子を殺して建国、短命だった。

BC3c セレウコス朝シリアからバクトリア・パルティアが独立

ペルシア

① バクトリア

アレクサンドロスの遠征で移住したギリシア人がアム川上流で自立、都:バクトラ(推定)

北西インドに侵入を繰り返す → 滅亡後もギリシア人がインドに住み付くもととなる ※ 最初の仏像はクシャーナ朝

BC139 スキタイ系のトハラ人に滅ぼされた

② パルティア

(6      )に率いられる遊牧イラン人がイラン北部でセレウコス朝から自立

アルサケス朝、中国名(7      )

首都:(8      )= ティグリス川中流域東岸

※ クテシフォンはBC2cのミトラダテス1世が建設し、BC1c半以降首都となる、ササン朝の首都でもある

BC1ペルシア語を公用語とし、アラム文字で表記(= イラン化)、パルティア語も使用される

BC2半 メソポタミアも征服、大帝国になる

※ セレウコス朝シリアに迫り、東はインダス川まで、のちローマ帝国の東侵を防いだ

※ 中国の(9      )とほぼ同時代、東西交易で繁栄

※ パルティアは騎馬戦術を得意とする勇猛な騎馬民族だった(例:パルティアン・ショット)

<衰退>

BC1cローマの東方進出で長期戦となりダメージを受ける

AD2c初頭トラヤヌス帝の時一時クテシフォンを奪われメソポタミア一帯を奪われた

AD3c初地方に反乱がおき、AD226ササン朝ペルシアの(10      )に滅ぼされる

③ ササン朝ペルシア

都:クテシフォン、AD224農耕系イラン人が(11      )に率いられイラン高原南部に建国

226 パルティアを滅ぼす → 「諸王の王」を名乗る、王朝名は祖父ササンより

第2代 (12      )位241~272

東方ではインダス川流域まで進出、クシャーナ朝を衰退させる → インドではグプタ朝に交替

西方ではエデッサの戦いでローマを破り、皇帝(13      )を捕虜とする

「イラン人と非イラン人の諸王の王」を名乗る

5c後、中央アジアの遊牧民(14      )の侵入を受けて苦しむ

(15      )位531~579 … 最盛期

(16      )と結んで(17      )を滅ぼす

東ローマ帝国の(18      )と争って優勢を保つ

クテシフォンにホスローのアーチを建設

(19      )を国教とする中央集権国家

6c以降東ローマ帝国との抗争で衰退 642 ニハーヴァントの戦いで敗れて滅亡

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