1-26 ポリスの衰退・ヘレニズム

世界史

ポリス社会の衰退

BC431〜BC404 ペロポネソス戦争

ぺロポネソス半島のポリスは(1      )同盟を結成、スパルタ中心

→ 反アテネのポリスが集結

海上ではアテネが優勢、アテネは城壁の中にこもり徹底抗戦

→ ペストの流行、BC429(2      )将軍の死去

→ 煽動政治家(=  デマゴーグ )により政治が混乱、(3      )となる

BC405年 アイゴスポモタイの海戦 → アテネ敗北、食糧輸入路の断絶

BC404年 アテネの降伏

【 ペロポネソス戦争の影響 】

長期にわたる戦争 → 農地の荒廃、市民の死者多数

市民の重装歩兵がポリスを自衛する原則が失われる = 傭兵制

傭兵はポリスへの帰属意識がない、連帯感がなくなる、権利と義務の関係が崩れる

< ポリス社会の崩壊 >

BC395〜386 コリント戦争

テーベの将軍(4      )の活躍(斜線陣戦法)

But アテネの復興を恐れたペルシア帝国の提案で(5      )締結

  • ペルシア帝国のギリシアへの干渉が強化される、テーベが一時的に覇権

しかし、テーベの覇権も長続きしない

マケドニアの台頭

(6      )・・・ マケドニア王(マケドニア人はドーリア系ギリシア人、都:ペラ)

軍制改革を行う ・・・ テーベのエパミノンダスの下で斜線陣戦法を学ぶ

BC338年 (7      )・・・ アテネ・テーベ連合軍を破り、全ポリスを服属させる

※ この戦いがアレクサンドロスの初陣

→ (8      )を結成させ、ギリシア支配に利用

※ スパルタは不参加

アレクサンドロス帝国

(9      )

・・・ フィリッポス2世の子、アリストテレスを家庭教師とする、愛馬ブケファラス

東方遠征

BC334年 東方遠征を開始 

・・・ ギリシア軍を率い、ペルシア帝国を討つために遠征

【 東方遠征について 】

< まず小アジアへ侵入 >

BC301年 グラニコス川の戦い

BC333年 (10      )・・・ ペルシア帝国のダレイオス3世に勝利

< 次にエジプトへ侵入 >

→ エジプト平定、ナイル川河口にアレクサンドリアを建設

< そして、ペルシアへ >

BC331年 (11      )・・・ ダレイオス3世に再び勝利

BC330年 ダレイオス3世暗殺される、ペルシア帝国滅亡、ペルセポリスは焼き討ちされる

< さらに中央アジアへ >

BC330~327年 中央アジアのソグディアナ・バクトリアに進出

BC327~325年 さらにインダス川流域に進出

※ ここで部下に止められ帰還、スサに帰還後バビロンへ向かう

※ 部下の一部は海路帰国、部下のネアルコスは海路帰国しユーフラテス川で大王と再会、『周航記』は散逸

意義:オリエント世界とギリシア世界を統一 = 世界帝国の成立

→ 各地にギリシア人の植民都市(12      )を建設(約70箇所)

帝国内で民族融合政策 ・・・ BC324年 スサで集団結婚の実施

BC323年 バビロンで死去

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