北京オリンピック・パラリンピック

オリンピック開催

2021年の東京オリンピック・パラリンピックからわずか半年ですが、2022年2月に北京オリンピック・パラリンピックが開催されました。

2018年の平昌オリンピック・パラリンピックとほぼ同じ91の国・地域から選手が参加しました。

中国でのオリンピックは2008年の北京オリンピック(夏季大会)に続いて2回目です。北京は夏・冬両方のオリンピックを開催した初の都市になりました。

日本は金3、銀6、銅9の合計18のメダルを獲得しました。これは、冬季大会としては最多のメダル獲得数です。

今後のオリンピックは2024年にパリ(フランス)で夏季大会、2026年にミラノとコルティナ・ダンペッツォ(イタリア)で冬季大会、2028年にロサンゼルスで夏季大会が開催されることが決まっています。2030年大会はまだ決まっていませんが、日本から札幌が大会を誘致しようとしています。

オリンピックの歴史

古代ギリシアでは、ポリスと呼ばれる都市国家が発達していました。そこにオリンピアというポリスがあり、ここで4年に一度開催されていた祭典がオリンピックの元となったと言われています。

19世紀末にフランス人のクーベルタンによって近代オリンピックが提唱されました。ここではスポーツによる人間育成と世界平和の実現が目標となりました。こうして国際オリンピック委員会(IOC)が創設され、1896年にギリシアのアテネで第1回近代オリンピックが開催されました。

その後、戦争による中止が何度かありました。1940年の東京オリンピックは1937年に日中戦争が起こり、戦争が長期化したことによって日本は開催を返上しました。代わりにヘルシンキ(フィンランド)で開催されることになりましたが、結局戦争によって中止されてしまいました。

1964年には東京オリンピックが開催されました。東海道新幹線や首都高速道路がつくられ、盛大に行われたオリンピックは日本の復興を世界に示すものとなりました。東京オリンピック開会の日は10月10日でしたが、これが体育の日という祝日となり、現在のスポーツの日のもとになっています。

1972年には札幌、1998年には長野で冬季オリンピックが開催されました。そして、2020年の東京オリンピックは新型コロナウイルス感染症の拡大により1年延期されましたが、2021年に開催されました。

今回の北京オリンピックも新型コロナウイルス感染症がおさまらない中で開催されましたが、大きな混乱もなく無事に開催することができました。

オリンピックと政治

「オリンピックは平和の祭典」と言われます。古代ギリシアでは戦争をしていてもオリンピアの祭典があると戦争を中断してオリンピアの祭典に参加するということもあったようです。近代オリンピックにおいても、政治的な関係が元でオリンピックに参加しないというようなことは避けるべきです。

冷戦の時代は残念ながら政治的な対立がそのままオリンピックに持ち込まれることがたくさんありました。有名な例として、1980年のモスクワオリンピックと1984年のロサンゼルスオリンピックがあります。モスクワ大会はソ連で行われたため西側諸国はオリンピックをボイコットしました。もちろん日本もボイコットし、競技によってはオリンピックがないことで競技レベルの向上に大きな支障があったものもあると言われています。1984年のロサンゼルス大会はアメリカで行われたため、今度は東側諸国がボイコットしました。1988年のソウルオリンピックは久しぶりに東西両陣営が揃ったオリンピックだったのです。

2022年の北京オリンピックではアメリカ、カナダ、イギリス・オーストラリアなどが中国のウイグル人虐殺を理由に政治家などを派遣しない「外交的ボイコット」を行いました。しかし、競技自体をボイコットすることは「何年も努力した選手を罰することになる」として、ボイコットを行いませんでした。

IOCはこのような措置を「スポーツと政治を切り離している」として歓迎しています。

中華人民共和国 データ

人口 14億人(世界1位)

面積 947万平方キロメートル(世界4位)

民族 56の民族からなる多民族国家。漢民族が90%以上を占める

GDP(国内総生産) 世界2位 = 1位はアメリカ、3位は日本

政治 社会主義体制をとる。共産党が政治を行っている。習近平国家主席

スポーツが政治を超えた例

1)中国とのピンポン外交

戦後、「一つの中国の原則」があるために、台湾が参加する国際大会に中華人民共和国は参加していなかった。中華人民共和国側も参加を拒否していた。1971年の世界卓球名古屋大会が開催されるにあたって、責任者の後藤氏は世界最強国の一つである中華人民共和国が参加しないのは世界大会としておかしいとし、参加を促した。日本の政治家などの反対もあったし、そもそも中華人民共和国から参加の返事がこない中、後藤氏は自ら北京を訪れ、周恩来首相と会談。中華人民共和国の参加を実現させる。
大会中、アメリカ選手が間違えて中国選手団のバスに乗り込むという事件が起こる。ここで中国選手がアメリカ選手に中国の織物を贈り、アメリカ選手団は中国に招待してほしいというメッセージを残す。中華人民共和国は大会後アメリカ選手団を北京に招待。ここからキッシンジャー国務長官の訪中、そして1972年のニクソン大統領訪中へとつながった。

2)アントニオ猪木氏

アントニオ猪木氏は国会議員をしていた時にスポーツの力を外交に利用した。北朝鮮でプロレスのイベントを開催し、日朝国交正常化の一助にしようとした。アントニオ猪木氏の師である力道山が在日朝鮮人だったということもあり、北朝鮮がこのイベントを受け入れ、イベントは大盛況のうちに終わりました。1995年に行われた第一回「平和の祭典」は女子プロレスラーを含む数試合が行われました。そして、2014年に行われた第二回「平和の祭典」はその趣旨に賛成した世界各国の選手が参加しプロレス以外にもテコンドー、合気道、シムルなどの演舞も行われました。

1990年に起こった湾岸戦争の時もアントニオ猪木氏は活躍しています。イラクは外国人を「ゲスト」とよび実質的な人質としていました。アントニオ猪木氏はイラクの首都バクダードでのイベントを企画。これに賛成した世界各国のスポーツ選手、ミュージシャンと共にプロレス興行、コンサート、サッカーの試合などが行われます。これがきっかけとなり、外務省主導で行われていたが進展がなかった人質解放交渉は一気に進み、解放に漕ぎ着けたのです。

コメント