世界史講習 各王朝の社会・経済

1. 中国の地理的条件 

大河は長江と黄河

・ 両者とも東西に流れる

→ 東西への移動は容易

北部はモンゴル高原

西部はチベット高原と乾燥地帯

・ 遊牧地帯が広がり、遊牧民が居住

2. 農耕社会と遊牧社会

農耕社会とは

・ 農業を主産業とする社会

・ 大土木工事が必要。また、農業は共同作業 → 指導者の出現(権力者)

・ 土地が広ければ収穫量が多い、人口が多ければ収穫量が多い

・ 人々は一定の場所に定住

遊牧社会とはl

・ 遊牧と交易を主産業とする社会

・ 個人個人がそれぞれの機転を効かせることで生活 → 集団は安全保障のために存在

・ 土地を直接所有・支配することにはあまり意味がない

→ 交易路の安全確保は重要

ということは、中国と周辺部で社会構造が違う

→ 国家の制度(法体系、支配体系、税制が違う)

周辺部

部族制・全体を束ねる絶対権力者は少ない

交易路の安全が確保されている上で交易活動をする

定住民とは違う支配・税制

中国(農耕)

皇帝が絶対的権力者

人口が多い、領土が広い(直接領土支配が必要)と強くなる

定住民に対する支配・税制

北方民族が中国に侵入した場合、騎馬による軍事力が強み

But

農耕社会を支配するにはそれなりの仕組みが必要

→ 漢民族に同化(する必要)、同化すると北方民族の優位が失われる

3. 中国の王朝が発展するには

周辺部

この部分は交易ができれば良い

支配(直接領土支配でなくても良い)をし、交易を保証すれば儲かる

中国(農耕)

この部分では領土が広い・人口が増加すれば良い

→領土拡張・平和が続く・食糧が足りる等

→ 交易路は草原の道、絹の道、海の道

→ 長安はシルクロードのスタート地点

→ シルクロードを支配する(= 西域経営をする)ができれば長安を拠点に交易ができる

この状態ができることで、農耕による利益(最大は決まっている)に加え交易による利益(無限)を加えることができる

西域経営に成功した王朝 = 漢、後漢、唐 → 西域経営の失敗は国家の衰退につながる 

隋の煬帝による大運河の建設

・ 南北を結ぶ交通路の完成

・ 中国の地形的な条件を克服

南方の食糧を北方に運ぶことができる

→ 農耕社会の拡大・安定をもたらす

南方と北方の物資の移動が可能

→ 海の道の利益を北方が享受

  • ※隋の時代は大運河を中国社会の中で有機的に繋げ利用することができていなかった
  • ※唐の時代になると利用が進む(唐代半ばには長安より洛陽の経済規模が大きくなっている)

 唐の時代には長安の発展とともに市舶市が設置され海の道による交易が盛んになっている

 宋の時代になると大運河の活用ができるようになる(都は開封)

 元の時代になると、北京までつながった大運河と草原の道がつながる = 大交易国家

4. 中国内の南北の差

華北 = 政治の中心地(長安、洛陽など)、経済や技術も発展、昔から人口が多い

河南 = 稲作の中心地(穀倉地帯)、経済や技術は遅れ、人口が少ない

  • ※華北から河南への移住が行われると、華北から資本・技術が運ばれてくる

 (そもそも、人口が増える)

→ 河南の発達

※この物資を華北に運べれば、華北にできた中国王朝はさらに発展する

5. 中央集権化

皇帝を中心とした独裁国家を目指しているのが中国王朝

各地の有力者(豪族)の力を削ぐ必要

そのために必要なこと:大土地所有の制限と官僚制の整備

→ 土地制度と選挙制度を理解しよう!

6. 王朝の盛衰について

ここから解説内容です。

そもそも、中国は面積が広い

(例:中華人民共和国は959万㎢、ヨーロッパ州は1053万㎢で50の国家)

→ 元々は各地に農耕社会が成立

【 殷:神権政治(祭政一致) 】

【 周:封建政治(礼政一致) 】

この時代は各地で権力者がいる状態 (一つの国家になっていない)

【 春秋戦国時代:諸侯が争っている(当然、分裂)

鉄製農具と牛耕の普及 → それまでの氏族制社会の崩壊、実力主義へ

各諸侯は自勢力の拡大のための政策を実施

→ 諸子百家の活躍

【 秦 】:始皇帝による中国統一

(文字 = 篆書、貨幣 = 半両銭、度量衡、車軌など)

→ 各地の権力者(豪族)を従わせる = 中央集権化の必要がある(法家による支配)

< ここで959万㎢の範囲が中国という一つの領域になったと思えば良い >

急激な中央集権化によって反乱が起こり、滅亡

例:郡県制

陳勝呉広の乱 → 項羽と劉邦の争い

【 漢 】:中国文化(漢文化)の成立

基本的に秦の支配を受け継ぐ

But

緩やかな中央集権化(1世紀かける!)

例:郡国制 → 異姓の諸侯を弾圧 → 劉氏の諸王の反乱 → 実質的な郡県制

西域経営

当初は匈奴の属国 → 中央集権化に成功後反転攻勢

< 武帝、張騫、大宛、大月氏など >

これによってシルクロード交易が盛んになる → 漢は繁栄

儒学による支配 → 以後中国王朝の基本理念となる

選挙制度 郷挙里選 → 地方豪族が推薦されて官吏となる(豪族に有利)

【 後漢 】

劉秀(光武帝による建国)

班超による西域経営(甘英を西方に派遣)

豪族の連合政権 → 豪族に有利なしくみ

豪族は郷挙里選により、高級官僚となる

裏ルートとして「宦官」「外戚」が存在

この三者が争う = 中央集権の失敗、したがって分裂する

【【 三国・魏晋南北朝 】】

【 魏 】

九品中正法 → 中正官による推薦で管理を選ぶ(中央集権を目論む)

「上品に寒門なく、下品に勢族なし」

屯田制の実施 → 荒地に入植・耕作させ徴税

【 北朝(五胡十六国) 】

北方異民族が侵入

→ 華北は戦乱の時代へ

→ 漢民族は南方に逃れるものも出現

【 南朝(東晋 → 宋 → 斉 → 梁 → 陳) 】

貴族文化が流行

占田・課田 → 移民に対する課税

この時代に江南の人口増加、農業の発達 = 穀倉地帯の完成

【 北朝(鮮卑族国家) 】

北魏(均田制)→ 西魏(府兵制)と東魏 → 北周と北斉

  • ※鮮卑族により新しい仕組みが整えられる(新しい時代の幕開け)

鮮卑族は農耕地帯を領土支配 → 漢化政策

この時代に宗教が発達

仏教が広まる、道教の成立

【 隋 】

北周の武将・外戚楊堅による建国

文帝

・ 南朝の陳を滅ぼして中国を再統一、都:大興城(長安のあたり)

・ 土地制度 = 均田制、税制 = 租庸調制、選挙制度 = 科挙、兵制 = 府兵制

・ 法体系 = 律令格式

・ 北方民族 突厥(トルコ系)を圧迫、突厥は東西に分裂

煬帝

・ 大運河の完成 → 南北の一体化

・ 聖徳太子が遣隋使(小野妹子)を派遣、対等な関係を結ぼうとする

・ 612以降3度にわたる高句麗遠征に失敗 → 農民反乱、滅亡

【 唐 】

・ 隋の武将李淵が山西で挙兵、大興城を占領、東突厥と手をくむ

・ 618 隋を滅ぼして建国、高祖、都:長安

第2代皇帝 太宗

・ 李淵の子(李世民)、実権を握り第2代皇帝となる

・ 唐の統治を安定させ、最初の繁栄期を迎える(貞観の治 627~649)

・ 630 東突厥を服属させ、遊牧諸民族から天可汗の称号を贈られる

= 可汗は従前以来の北方遊牧民の王位、太宗が漢民族と北方民族を共に統治する皇帝となった

第3代皇帝 高宗(649~683)

・ 朝鮮半島の百済・高句麗を破る、西は西域を領有

・ 征服地には都護府を置く、実際はその地の有力者に統治を任せる(羈縻政策)

【 唐の支配制度 】

・ 律令制度

法体系 律 = 刑法、令 = 行政法、格 = 臨時法、式 = 施行細則

中央機構 

三省 = 中書省(詔勅の起草)、門下省(詔勅の審議)、尚書省(詔勅の執行)

六部 = 吏部(官吏の人事)、戸部(財政)、礼部(儀式)、兵部(軍事)、刑部(司法)、工部(土木・建築)

観察機関 = 御史台

地方制度 = 州県制 全国を州にわけ、州を県に分ける → それぞれに官吏を中央から派遣

官吏登用制度 = 科挙 秀才、明経、進士など科目別の試験、宋の時代に殿試が追加され完成

→ 貴族の姉弟には蔭位の制(親の地位によって子の官位が決まる)がある

→ 9世紀に門閥派と科挙派の党争を経て、科挙官僚が力を持つようになる = 門閥貴族の没落

・ 均田制

土地の公有を原則として、成年男子に均等に土地を支給し、租税と兵役を負担させる制度

16歳以上の男子に口分田(80畝)を給田、耕作させ税を負担させる

死ねば国家に返還させる、ただし永業田(世襲可)を20畝支給

60歳以上の老人や官戸には40畝、未亡人には30畝を支給

→ 日本の班田収授法の手本?

口分田の支給のため戸籍を作成して本籍地を定め、租税台帳を作成して租庸調・雑徭を課す

高級官僚の私有地は認められており、貴族は荘園を小作人(隷属農民)に耕作させる

・ 租庸調制

均田制をもとにした租税制度、口分田を耕作する丁男にかかる人頭税

租 = 粟2石(現物)

庸 = 年20日の労役(正役)かその代償としての絹

調 = 絹、綿、布または麻斤の現物で納める

雑徭 = 年40日地方で労役

→ 口分田を耕作する丁男にかかる人頭税で現物納かつ定額である

→ 労役(雑徭)の負担が非常に重い

・ 府兵制

西魏に始まる軍事制度、口分田を給田された男子から徴兵する制度

農民から挑発された兵士は地方の折衝府に勤務(租庸調は免除、武器は自弁)

兵士の中から、都の警備(衛士)や辺境防備(防人)が選ばれる

・ 貨幣制度

621 高祖が開元通宝を発行、漢の五銖銭以来の統一貨幣として使用される

【 唐の国際性 】

・ 長安

皇帝の居城・執務の場である宮城を中心に南に伸びる朱雀大路を軸に東西対称の計画都市

日本の平城京や平安京、渤海の上宮竜泉府のモデル

西域を通じササン朝ペルシアからイラン文化が伝えられ各地から朝貢使節や商人、留学生が集う

各宗教の寺院が混在

・ 唐代の外来宗教(三夷教とイスラーム教)

< 三夷教 >

景教 = キリスト教ネストリウス派、長安に大秦景教流行中国碑が建設される

祆教 = ゾロアスター教、拝火教ともいう

摩尼教 = イランのササン朝起源の宗教

< イスラーム教 >

回教 = イスラーム教、8cに伝来、清真教ともいう

イラン文明の伝来 = 651 ササン朝の滅亡

→ イラン人の長安移住

→ ポロ競技などが長安で流行

→ 日本にもイラン文明が伝来(法隆寺の獅子狩文錦、正倉院の漆胡瓶など)

・ ムスリム商人との交易

イスラーム教徒のアラブ人商人との交易 = 揚州や広州など華中~華南の港市に来航、交易

→ 唐ではイスラーム教徒を大食と呼ぶ

広州に海上交易を管轄する市舶司がおかれる、外国人居留地は蕃坊という

・ 仏教

朝廷・貴族の保護を受けて繁栄、インドとの往来もさかん

玄奘

629 陸路インドに向かう、ヴァルダナ朝のハルシャ王の庇護でナーランダ僧院に学ぶ、陸路帰国、長安に慈恩寺を創建、仏典の漢訳(三蔵法師)、旅行記は『大唐西域記』

義浄

671 海路インドに到達、経典を持ち帰る、海路帰国、旅行記は『南海寄帰内法伝』(シュリヴィジャヤの情報を伝える)

浄土宗 末法思想が興り、念仏により阿弥陀如来のいる極楽浄土への往生を願う

禅宗 インドから伝わり、坐禅による悟りを開くことを求める

他に華厳宗(華厳経を重視)や天台宗(法華経を重視)、密教である真言宗などが興る

・ 貴族文化

儒学は科挙の試験内容とされ、貴族は必ず学んだ

→ 経典の解釈を中心とする訓古学が復興、内容は固定化 = 発展しない

文学として唐詩、文として韓愈や柳宗元らが古文復興(= 四六駢儷体の排除)を訴える

→ 科挙で詩作の能力が問われたことから発展

【 唐の動揺 】

・ 則天武后の政治

高宗の死後実権を握る、690 帝位に就く(中国史上唯一の女帝)、国号を周とする

科挙官僚の重用など独自の政治

→ 政治の担い手が世襲的な貴族から実力本位の官僚へ(貴族社会の衰退)

次の中宗が国号を唐に戻すが韋后に殺される

この混乱を< 武韋の禍 >という

・ 玄宗の政治

韋后を殺害、父を皇帝とする

712 即位

前半は政治の引き締めにあたり開元の治と呼ばれる

8c中国社会の変化が起こっていた

< 人口が増加、商業が発達 → 農民の貧富の差が広がる >

< 農民学分電を放棄して本籍地を離れて逃亡 → 均田制の動揺 >

749 募兵制(723実施、749完全に府兵制を廃止し切り替える)

→ 農民から兵士を徴発することができなくなり、傭兵を募集する募兵制に切り替える

節度使 = 募兵制の元で辺境の防備にあたる指揮官

→ 次第に地域の行政・財政を任され、兵士を私兵化

751 タラス河畔の戦い

→ イスラーム教徒に大敗 = 西域経営の失敗

楊貴妃を寵愛しその一族の楊国忠を宰相とする

755 安史の乱

3つの節度使を兼ねた安禄山と史思明が起こした反乱(共にソグド人)

→ 一時長安を占領、玄宗と楊貴妃は四川に逃亡

→ 唐は北方民族のウイグルの援助で反乱を鎮圧

結果

各地の節度使が自立化、唐王朝の統制力は弱まる

→ 自立化した節度使を藩鎮と呼ぶ

ウイグル、吐蕃、南詔などの周辺民族が唐の領土に侵入

8~9世紀、唐は領土縮小しながら存続

唐の衰退

8c後 安史の乱後、第土地所有の進展 = 荘園

→ 均田制の崩壊

→ 租庸調による税収が減少、財政難となる

780 両税法、宰相楊炎による

< 実際に所有する土地や資産の額に応じて現住地で課税 >

< 夏か秋のいずれかで徴収 >

< 銭納を基本とする >

→ 大土地所有が認められることとなる

→ その後もこの税制が続き、明の一条鞭法まで続く

→ 資産額で課税 = 財産額で課税 = 貧富の差を認めた(人頭税と発想が違う)

【 北方民族 】

・ スキタイ

BC6c スキタイ = 草原の道を支配

・ 遊牧国家

BC4c 遊牧国家の形成

匈奴 戦国時代の中国各国は長城を建設、始皇帝の遠征で一時衰退

月氏 当初甘粛省・タリム盆地、のちイリ地方に移動し大月氏となる

烏孫 ジュンガル平原、のち月氏を圧迫

・ 匈奴帝国

BC3c 匈奴帝国の成立

最盛期は冒頓単于、漢の高祖との間に和平を結ぶ(漢を服属させる)

月氏を征服、甘粛省を含む中央アジアオアシス地帯を支配

武帝による圧迫

BC1c 東西に分裂(東匈奴は服従)

1c 南北に分裂(南匈奴は中国国内へ)

・ 遊牧民の活動

4c 漢とローマ帝国が解体し、ユーラシア大陸で遊牧民が盛んに活動する

西ではフン人が移動、ゲルマン人の大移動を引き起こす

東では五胡が活動

・ 柔然

5c 草原地帯を支配、北魏(鮮卑族)と対立

この頃エフタルが活動

→ 6cインドに侵入、ササン朝と突厥に挟み撃ちにされて滅亡

・ トルコ系民族の活動

突厥

BC1c 匈奴が衰退し、代わりに自立したトルコ系民族 → 柔然に服属

6c 柔然を倒し、モンゴル高原を支配

557(?) ササン朝のホスロー1世と結び、エフタルを滅ぼす

583 隋に圧迫され東西分裂

西突厥 アム川上流域(中央アジア)を支配

東突厥 モンゴル高原東部を支配、突厥文字を作る

ウイグル

8c モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯に進出、国教がマニ教

755~763 安史の乱で唐を助ける

  • ※領内のソグド人が交易に従事、巨大な交易ネットワークが完成

ソグド人

アケメネス朝の滅亡によりイラン系民族が各地に移住 → 交易に従事、官僚として定着

特にブハラ・サマルカンドを拠点に交易活動に従事(この辺りをソグディアナという)

突厥・ウイグル領内、さらに隋唐にも定住

→ 巨大交易ネットワークの完成

イラン系なので、ゾロアスター教などを広める

アラム文字から発展したソグド文字を使用 → ウイグル文字、満州文字、モンゴル文字の元となる

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